天正11年4月20日の早朝の雨やみの中で、馬を洗っていた中川清秀方の馬屋係2人が突然現れた佐久間盛政の兵に切り殺され、賤ヶ岳合戦の火ぶたが切られた所。
余呉町観光協会 |
昭和29年(1954年)9月28日、水原秋桜子は余呉湖を訪れている。 |
余吾の湖のほとり 湖の色すでに寂びたり曼珠沙華 芒野の鳶より低し賤ヶ岳
『玄魚』 |
昭和43年(1968年)、水原秋桜子は賤ヶ岳を訪れている。 |
賤ヶ岳 幾尾根の紅葉しるきは誰が砦 掛稲をとるや芒の余呉の湖 姉川ときくに虫の音たゞならず 雨ながら紅葉を雲に小谷城
『殉教』 |
昭和45年(1970年)10月、山口誓子は余呉湖を訪れている。 |
余呉湖 秋晴に湖の自噴を想ひみる
『不動』 |
明治34年京都市生まれ。東大法学部卒業、ホトトギス同人。昭和23年より「天狼」主宰。勲三等、日本芸術院賞、朝日賞、関西大賞(大俳聖賞)、国際俳句交流協会顧問。89歳。 昭和39年、昭和45年に余呉湖畔吟行。古代の羽衣伝説や天正11年の賤ヶ岳戦乱などを秘めた水面に湖心の湧水と清澄で冷徹な水のいのちを詠む。 |
賤ヶ岳合戦の戦いは槍の戦いともいわれるが、特に七本槍で名高い秀吉の若い小姓達が槍揮って功績をたてたのはこの付近であろう。秀吉は賤ヶ岳山頂から見守っていた。
余呉町観光協会 |
「七本槍」は、福島正則・加藤清正・加藤嘉明・脇坂安治・平野長泰・糟屋武則・片桐且元。 |
元禄時代、芭蕉の門人。美濃の生まれと、とも伝えられているが、生涯漂泊の俳人である。 元禄2年「おくのほそ道」に路通は陰暦8月17日、芭蕉を敦賀の港まで出むかえ、みのの国へと伴う。「駒にたすけられて、大垣の庄に入る」としるされている。 「鳥共も」の句は元禄4年の「猿蓑集」に掲出されているが、芭蕉と向井去来の二人は、「去来抄」で「此句細みあり」と大いに賞している。 水鳥は冬の季、ここには虚無的な静かさと寂寥がある。 40歳ころの句か。 |
去來曰、細みは便り無き句に非ず。細みは句意に有り。是も又俳句あげて辨ず。 |
先師曰、此句細み有と評し玉ひしと也。 |