湖の水まさりけり五月雨 | 去来 |
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昭和6年(1931年)、大阪毎日・東京日日新聞社主催の日本新名勝俳句の募集で選者高浜虚子の最優秀句20句に選ばれた。 |
さみだれのあまだればかり浮御堂
『万両』 |
堅田は古来近江八景の一つで、芭蕉も好んで杖を留めた。一九三〇年に大毎、東日両社が日本新名勝俳句をひろく募ったのであるが、たまたま私の句が推奨されたので、満月寺住職の懇請を容れて、一九六五年、門前にこの句碑が建った。 現今の建築以前の簡朴な浮御堂であったならば、さらにふさわしくマッチしただろう。湖中に堂を支えた柱も只今は永久保存のために石材を用いている。一見してがっちりしている感じでは惜しまれる。しかし今の建物も樋がない。屋根からすぐに湖水へ雨だれがポタポタと落ちる。堂のぐるりだけ水輪はいそがしくもつれあう。雨だれにとりかこまれながら湖中の堂に佇んでいる孤独の世界、私はそれに強く惹かれるのであった。 「湖の水まさりけり五月雨」と昔の去来は五月雨の趣を巧く詠んだ。私はその句に少しでも及びたいと、始終もやもやと構想を描き苦しんだ。 |
平安時代の長徳年間(995年頃)、比叡山横川恵心院に住した源信(恵心)僧都が、琵琶湖を山上より眺め湖中に一宇を建立して自ら一千体の阿弥陀如来を刻んで「千体閣」「千体仏堂」と称し、湖上通船の安全と衆生済度を発願しに始まる。 |
元禄4年(1691年)8月16日、義仲寺の月見に引き続き、船で湖上に遊び十六夜の月を詠んだ句。 |
昭和38年(1963年)10月9日、芭蕉二百七十回忌に満月寺建立。谷口久次郎書。 |
月の宮いつしか落て浮御堂 | 角上 |
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名月の玉や眉間にうき御堂 | 千那 |
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延享3年(1746年)、佐久間柳居は浮御堂を訪れたようである。 |
張出して氷の椽や浮御堂 |
○堅田浮御堂 千躰佛の御まへにひとり立て浪は動かす兵陽城をおもひやり見渡は折ふし旭うるはしく鏡山のいたたきにさし出るけしきその餘光湖面を辷つて堂下に入 氷解く朝日の上やうきみ堂 |
明和2年(1765年)、蓑笠庵梨一は浮御堂で句を詠んでいる。 |
真野の入江を過て堅田に出、浮御堂一見す。 蘆の芽や日もかろかろと水の上 |
明和8年(1771年)、加舎白雄は浮御堂を訪れているようだ。 |
うきみ堂 思ひたつ蝶が心よ浮御堂 |
涼しさや芦のうごかす浮御堂 |
廿一日 雪 帰雁見知ておれよ浮御堂
『文化句帖』(文化元年1月) |
一茶が浮御堂を訪れたのは寛政4年(1792年)から寛政10年(1798年)かけて西国を俳諧行脚した時のことである。 |
明治38年(1905年)9月28日、長塚節は浮御堂を訪れている。 |
堅田浮御堂 小波のさやさや來よる葦村の花にもつかぬ夕蜻蛉かも 廿九日、朝再び浮御堂に上る、此あたりの家々皆叺を つくるとて筵おり繩を綯ふ 長繩の薦ゆふ藁の藁砧とゞと聞え來これの葦邊に |
昭和22年(1947年)11月6日、高浜虚子は堅田を訪れている。 |
湖もこの辺にして鳥渡る 湖の蘆荻(ろてき)漸く枯れんとす 十一月六日 近江、堅田、中井余花朗邸宿泊。 |
昭和27年(1952年)5月20日、高浜虚子は星野立子と中井余花朗邸へ。 |
五月二十日 近江、堅田、余花朗邸 ひしひしと玻璃戸に灯虫湖の家 |
五月二十一日。六時目覚め、七時起床。快晴。庭さき がすぐに琵琶湖である。下駄をはいて湖べりまで行つて 見る。舟に乗るつもりでゐたのに舟が故障で引き返す。 諸子網鮒網といひ晴れ渡り |
堅田に水中句碑建つ 十一月三十日除幕式 杞陽に代理を頼む 時雨るゝと小春日和とどちらでも |
昭和28年(1953年)10月10日、虚子は湖中句碑を見ている。 |
湖中句碑蘆の嵐につゝまれて 十月十日 昨夜堅田、余花朗居に泊る。真砂子も来り加はる。 湖中句碑を見る。 |
滋賀県堅田町浮御堂の廻廊下、芦茂る湖中にこの碑は建って居る。昭和二十七年十一月の建設に成る珍らしい句碑である。「句日記」昭和二十八年十月十日の項に、「湖中句碑を見る」として、 湖中句碑蘆の嵐につゝまれて とある。昭和十五年十一月、虚子翁は母堂の五十回忌を比叡山に修せられた後、この地の風光を賞し、この作があった。 同じ句を刻んだもう一基の碑が、湖中句碑の建設者、堅田町の中井余花郎氏の庭園にもあるが、これは別掲リストの中に収めるにとどめた。尚、浮御堂の境内には、 鎖開けて月さし入よ浮み堂 芭蕉 の句碑(寛政七年建立)も建って居る。 |
昭和31年(1956年)10月7日、中井余花朗邸で第二回関西稽古会。 |
稽古会、第二回 堅田、余花朗邸 秋晴の第二日目や湖に浮ぶ 秋水に石の柱や浮御堂 |
昭和31年(1956年)10月、高野素十は堅田を訪れている。 |
堅 田 三句 進めゆく無月の舟の舳かな 鳰の子の萍にあと引き遊ぶ 萍のひらきて閉ぢて鳰くゞる 余花朗居 虚子来ると萩の主のまめまめし
『桐の葉』 |
昭和35年(1960年)12月1日、久保田万太郎は満月寺を訪れている。 |
滿月寺(二句) 短日の水のひかりや浮御堂 廣告のベンチも枯れし蘆もかな
『流寓抄以後』 |
昭和37年(1962年)、高野素十は余花朗邸を訪れている。 |
堅田 余花朗居 二句 湖へ出づる小門にいつも蝶 蕗の葉の二つづつなる草の中
『芹』 |
昭和39年(1964年)10月13日、星野立子は湖中句碑を見る。 |
浮御堂へ詣り、湖中句碑を見、夕刻句会。 |
枯れそめし芦の下端に湖の波 秋風の冷ゆる日は早や鴨来ると 秋雨の湖に降りつゝ暮れゆくを |
昭和39年(1964年)12月、高野素十は余花朗邸を訪れている。 |
堅田 余花朗君を訪ふ つぶやける醪に耳を傾けし
『芹』 |
昭和40年(1965年)6月、山口誓子は浮御堂に句碑を訪ねている。 |
浮御堂へ入る門の、右手に私は、白っぽい御影石の句碑を見た。青畝の 五月雨の雨垂ばかり浮御堂 建立は昭和四十年。ここになくてはならぬ句であるから、この句碑を見て喜んだ。 門を入って、直ぐ浮御堂へは行かず、右手湖岸の句碑に近寄った。むくつけき自然石。 鎖あけて月さし入よ浮御堂 (中略) 句碑の建立、寛政七年。 その句碑の背後に青葭原があり、その向うに湖があり、ずっと向うやや右に三上山が見える。 (中略) そこから見える湖中、青葭にかこまれて、虚子の句碑 湖も此辺にして鳥渡る が立っている。杭のように細長い石だ。夜、浮御堂を照らす光源がその近くにある。それに通ずる電線に子燕が三羽並んで、親燕が餌をもたらすのをじっと待っている。 浮御堂、浮御堂と云うが、寺の名は満月寺。境内にはまだまだ句碑がある。しかし満月寺ゆかりの句碑としては、芭蕉と青畝のがあれば足りる。
『句碑をたずねて』(近江路) |
昭和57年(1982年)11月20日・21日、稲畑汀子は虚子湖中句碑復元法要。 平成元年(1989年)、阿波野青畝は湖中句碑を見ている。 |
堅田浮御堂 湖中句碑明らかに月明らかに
『西湖』 |
平成2年(1990年)8月、阿波野青畝は浮御堂を訪れる。 |
浮御堂 蝙蝠の一過千体阿弥陀より
『宇宙』 |