幼少から盲目の延喜帝第四皇子蝉丸の宮を帝は侍臣に頼み、僧形にして逢坂山にお捨てになった。この世で前世の罪業の償いをすることが未来への扶けになるとあきらめた宮も孤独の身の上を琵琶で慰めていた。
一方、延喜帝第三皇女逆髪の宮も前世の業因強く、遠くの果てまで歩き回る狂人となって逢坂山まで来てしまった。美しい琵琶の音に引かれて偶然にも弟の宮蝉丸と再会し、二人は互いの定めなき運命を宿縁の因果と嘆き合い、姉宮は心を残しながら別れていく。という今昔物語を出典とした名曲が謡曲蝉丸である。
蝉丸宮を関明神祠と合祀のことは定かではないが、冷泉天皇の頃、日本国中の音曲諸芸道の神と勅し、当神社の免許を受けることとされていたと伝えられる。
謡曲史跡保存会 |
勉強になる。
石燈籠

星野椿の句碑

逢坂の
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流れは清し
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初桜
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平成6年(1994年)3月、建立。
碑 陰
句誌玉藻主宰星野椿先生去年当神社に御参詣の砌一句を献ぜらる。三上淳これを記念し末永く残し伝えんと、更には金婚式の標として、この句碑を建立す。
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昭和59年(1984年)、立子の没後に「玉藻」主宰を継承。
正岡子規の句碑

木の間もる
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月あをし
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杉十五丈
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平成7年(1995年)4月、建立。
碑 陰
明治二十三年八月二十八日、子規上京道すがら大津に宿り、近江の月を眺めんと逢坂山へと、木立深く静寂な樹間に燈の見える蝉丸のお社にて、木の間もる月を眺ての一句(しやくられの記下)子規先生この近辺を逍遥、足跡を残されしを記念し、またわが老妻淳と共にこの地に半世紀を過した事を回想反省して句碑を建立す。
関蝉丸神社宮司 三上四郎識
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