東京に歸るに、七條驛より汽車に乘りては興なし。昔の街道を大津まで歩いて見んとて、三條通りを東へ、圓山を右に見、如意ヶ嶽を左に見て、路傍に天智天皇の御陵を伏拜み、大谷驛を經て、逢坂山を越ゆ。汽車の旅客、馬場驛と大谷驛との間にトンネルあるを記憶するなるべし。これ即ち音に聞えたる逢坂山也。『逢坂の關の清水に影見えて今や引くらむ望月の駒』と詠じけむ。歌の上には、如何にも勝地のやうに思はるれど、實際來て見れば、山間の狭路にて、さばかりの風情もなく、眺望も無し。『これやこの行くも歸るも別れては知るも知らぬも逢坂の關』と歌ひたる琵琶の名手蝉丸は、こゝに住まひき。今、蝉丸の祠と稱するもの、二つ三つあり。流泉啄木の曲絶えて、こゝに千年、汽車さへ通じて、行くも歸るも、こゝを通るものは稀れ也。關の址は、いづくにや。巡査派出所が關門然と構へたるは、今もなほ用心を要する處と見えたり。
「逢坂の關址」 |
逢坂の関の初出は、平安京遷都の翌年延暦14年(795年)に逢坂の関の前身が廃止されたという『日本紀略』の記述です。 その後、逢坂の関は京の都を守る重要な関所である三関(鈴鹿関・不破関・逢坂関)のひとつとして、弘仁元年(810年)以降、重要な役割を果たしていましたが、平安後期からは、徐々に形骸化されその形を失ってきました。逢坂の関の位置については、現在の関蝉丸神社(上社)から関寺(現在の長安寺のある辺り)の周辺にあったともいわれますが、いまだにその位置は明らかになっていません。 |
是れやこの 行くもかへるも 別れては |
|||||||
知るもしらぬも 逢坂の関 |
名にしおはば 逢坂山の さねかづら |
||||
人に知られで くるよしもがな |
内大臣に侍ける時、家に百首歌よみ侍けるに、名所 恋といふこゝろを
前関白
わくらばにあふさかやまのさねかずらくるをたえずとたれかたのまん |
夜をこめて 鳥の空音は はかるとも |
世に逢坂の 関はゆるさじ |