天智・天武・持統三帝の御産湯に用いられたという霊泉があり、「御井の寺」、「三井寺」と呼ばれる。 |
三井晩鐘 盃に片破ハなし花の鐘 |
遊二園城寺一 からびたる三井の二王や冬木立 |
安永3年(1774年)4月、井上士朗は三井寺に参詣している。 |
三井寺にまふつ |
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茂り葉や三井の佛の光りさし | 士朗 |
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享和元年(1801年)3月9日、大田南畝は大坂銅座に赴任する旅で三井寺を訪れている。 |
塔有。これ唐院也。右に鬼子母神あり。むかひに大きなる堂あり。これ金堂也。その側の井はいはゆる御井にして、三井とも閼伽井ともいふ。天智・天武・持統三帝の産湯に用ひし水なるゆへに、御井とはいへりとなん。 |
文化元年(1804年)、鶴田卓池は三井寺で句を詠んでいる。 |
三井寺にて 見る度におとろく鳰の湖辺哉 |
明治23年(1890年)8月31日から9月6日まで、正岡子規は三井寺観音堂前の茶屋に閑居。 |
つぐの朝三井寺にうつるに湖山一望の中にありて閨の中よりも猶全景を見得べし 晩鐘は頭の上にとゞろき歸帆は足の下に走る 石山瀬田は右の山にかくれて見えず比良堅田唐崎の松は左のかたにおぼろげに望むべし 我住居は觀音堂前の茶屋にして考槃亭と名<づ>く |
昭和28年(1953年)8月、中村草田男は帰郷途次、三井寺を訪れた。 |
三井寺にて 寺清水もつれ流れて末濁らず 露の鐘鳴るとき母よ子を信ぜよ 國の勢ひは山々へ退(の)き蝉の寺 |