寛徳2年(1045年)11月20余日、菅原孝標女は石山寺に3日参籠。 |
霜月の廿よ日、石山にまゐる。雪うち降りつゝ、道のほどさヘをかしきに、逢坂の関を見るにも、むかし越えしも冬ぞかしと思ひ出でらるゝに、そのほどしもいと荒う吹いたり。 逢坂の関のせき風吹く声はむかし聞きしにかはらざりけり |
永承4年(1049年)、菅原孝標女は再び石山寺に参籠する。 |
二年ばかりありて、又石山にこもりたれば、夜もすがら、雨ぞいみじく降る。旅居は雨いとむつかしきものと聞きて、しとみをおしあげて見れば、有明の月の、谷の底さヘくもりなく澄みわたり、雨と聞えつるは、木の根より水の流るゝおとなり。 谷河の流れは雨ときこゆれどほかよりけなる在明の月 |
明和7年(1770年)3月晦日、諸九尼は京都岡崎の湖白庵を跡にして、石山寺に詣でた。 |
石山寺に南華法師のいまそかりけるに、いとま申入んとてまうでけるに、都よりしたしき人のあまた送来り、水うミに影みゆるかぎりハと聞えけるを、とかくいひなぐさめて、爰より立かへる波の音もせずなりにき。 |
明和8年(1771年)9月4日、諸九尼は再び石山寺に登り、旅の無事を謝している。 |
七ツ下りのころ石山に着て、世尊院の方丈に、頭陀袋をほどく。誠に大とこたちの、朝夕に祈たび給へりしゆへ(ゑ)にや、あやしの老の身の、つゝがなく、二度まミへ(ゑ)参らするも、大慈大悲の御恵ミなるべしと、なきミわらひミ物がたりて、夕ぐれの程に御堂に登り、所願成就の法施奉り、月見の亭に行てミれば、夕附夜の空はれて、風は律といふ調にやかよふらんと、やゝ時をうつす。 はらりはらり荻ふく音やびはのうミ |
享和2年(1802年)3月23日、太田南畝は石山寺を訪れ「源氏の間」を見ている。 |
左右に七軒の寺家あり。右に二王門あり。石山寺と言額あり。門を入り左右子院四軒あり。家居のさまもつきつきしく見ゆ。左のかたの奥なるは別當なるべし。知行五百七拾九石餘ときくもむべなり。右のかたにたてる石黒くさかしくみゆ。坂をのぼれば高さ丈にあまれる石つらなり峙り。本堂は南向にて本尊は觀世音とかや。紫式部源氏の間といふ有りて、カ(※「穴」+「果」)頭口に翠簾をたれたり。本堂に額あり。其文にいはく、 江州北郡浅井備前守息女亜相 当寺諸伽藍者 秀頼卿御母堂為二世安楽御再興也 とあり。拝殿もあり。三十八社の明神・多宝塔・叉庫(アゼクラ)等あり。鐘楼の鐘は人々のつく事をゆるすとみえて、かはるがはるつく音かしがまし。早鐘無用の札いでたるもおかし。 |
元禄3年(1690年)4月、芭蕉は紫式部が『源氏物語』を執筆したといわれている「源氏の間」を拝観。 |
願主 信州筑广郡會田郡矢久村 | 松風斎梅朗 |
右芭蕉翁真蹟画賛一軸 | 石山寺尓寄附して一墳建立 | 于時嘉永二己酉閏四月 梅室書 |
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紫式部像があった。 ![]() 多宝塔 ![]() 国宝である。
心経堂 ![]()
石山寺から石山寺観光駐車場へ向かう途中の右手に芭蕉の句碑がある。 義仲寺へ。 2008年〜滋 賀〜に戻る ![]() |