国指定史跡 |
義仲寺の名は、源義仲を葬った塚のあるところから来ていますが、室町時代末に、佐々木六角氏が建立したとの伝えがあります。 門を入ると、左奥に俳聖松尾芭蕉の墓と並んで木曽義仲の供養塔が立っています。 「木曽殿と背中合わせの寒さかな」という著名な句は、芭蕉の門人又玄(ゆうげん)の作です。境内にはこの句をはじめ、芭蕉の辞世の句「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」など多くの句碑があります。 また、巴御前を弔うために祭ったといわれる巴地蔵堂もあります。 昭和42年(1967年)11月に国指定の史蹟となりました。 大津市教育委員会 |
寿永3年(1184年)正月20日、木曽義仲は源範義、義経の軍勢と戦い、討ち死に。 |
木曽の情雪や生ぬく春の草
『芭蕉庵小文庫』(史邦編) |
義仲の側室巴御前は尼僧となり、義仲墓所の辺に「無名庵」を結び、日々供養した。 |
元禄3年(1690年)3月、芭蕉は「無名庵」に滞在。各務支考は無名庵に芭蕉を訪ねて門下となる。 |
月見する座にうつくしき貌もなし | 翁 |
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『卯辰集』(北枝) |
元禄3年(1690年)9月21日、鬼貫は江戸に向う旅の途上、木曽塚を訪ねている。 |
松本を過てもころ川に至る。人の家のうしろに柿の木ありて、 義仲塚 柿葺や木曾が精進がうしにて |
元禄三年の秋ならん、木曾塚の旧草にありて、敲戸の人々に対す |
又玄の句碑 ![]() 木曽殿と背中合わせの寒さかな 『己が光』(車庸撰)には「木曽殿と背(せなか)を合する寒さ哉」とある。 元禄4年(1691年)9月、又玄が無名庵に滞在中の芭蕉を訪ねた時の句。 又玄は伊勢の俳人。
句空は「無名庵」を訪ねる。
![]() 旅に病で夢は枯野をかけ廻る
旅にやんで夢は枯野をかけまはる
芭蕉翁墓 ![]()
義仲寺に今は無い。 義仲寺には、もうひとつ芭蕉の句とされる碑があった。 ![]() 三日月の影を延すな蕎麦の花 現在、この句は文献で芭蕉の句と確認できない。
寛延3年(1750年)、文素建立。
蝶夢の句碑 ![]() 初雪や日枝より南さり気なし
資料館に芭蕉像があった。 ![]()
矢島蟻洞の句碑 ![]() よい處へちればさくらの果報かな 蟻洞は俳諧を富岡乙也に学ぶ。無名庵十二世。 明治15年1月8日(1882年)、81歳で死去。 明治15年(1882年)12月、建立。 乙也の句「行燈のひとり消けりけさの秋」の碑もあったようだ。
岡田魯人の句碑 ![]() 月の湖鳰は浮きたりしづミたり 魯人は無名庵十四世。 明治38年(1905年)5月8日、68歳で没。 明治42年(1909年)6月、建立。
瀬川露城の句碑@ ![]() 栗津野に深田も見えず月の秋 瀬川露城は無名庵十五世。 昭和3年(1928年)5月8日、78歳で没。 瀬川露城の句碑A ![]()
西尾其桃の句碑 ![]() 鴬の頻に鳴くや雨の花 西尾其桃は無名庵十七世。 昭和6年(1931年)4月8日、和歌山白浜で客死。
寺崎方堂の句碑 ![]() むべ三顆翁を祀るけふにして 寺崎方堂は無名庵十八世。神戸生。瀬川露城の門人。 昭和38年(1963年)、没。
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