種田山頭火の句碑
一歩づつあらはれてくる朝の山
五時広島駅着、地下道をのぼつて出札口に近づくと、大山さんのニコニコ顔が待つてゐた、うれしかつた、連れて澄太居へ。―― 澄太居は予想通りで、市にあつて市を離れたところに澄太らしいところがある、葉鶏頭がたくさんあつて、とてもうつくしい。 明るい家、明るい気分。
『行乞記(広島・尾道)』 |
山頭火は俳友大山澄太の広島市の家に数日逗留後、小雨のふるなかを出立した。 昭和8年(1933年)9月19日である。この旅にも日記と俳句を残している。 |
私は東へ急いだ、十時から十二時まで海田市町行乞、(中略) 午後は雨、合羽を着て歩いた、横しぶきには困った、二時半瀬野着、恰好な宿がないので、さらに半里ばかり歩いて、一貫田といふ片田舎に泊った。宿は本業が豆腐屋、アルコールなしのヤツコが味へる。…… 今日の行程は五里。 所得は(銭三十銭、米四合) 御馳走は(豆腐汁、素麺汁) 二五 中ノ上 前が魚屋だからアラがダシ、豆腐はお手のもの。 早くから寝た、どしゃぶりの音も夢うつゝ。 ・朝がひろがる豆腐屋のラツパがあちらでもこちらでも (中略) ・一歩づつあらはれてくる朝の山 (後略) 九月二十日 曇、また降るだろう、彼岸入り、よい雨の瀬音。 歩いているうちに、はたして降りだした、しようことなしに八本松は雨中行乞、(中略) 二時近くなって西条着。(中略) 今晩の御馳走(きうりなます、にざかな、いも) 昼飯はぬき ・まことお彼岸入りの彼岸花 (後略) 本名は種田正一。明治15年(1882年)現在の防府市の大地主の家に生まれた。11歳の時、母が自殺。大正5年、種田家は破産。山頭火は妻子を連れて熊本に移住、3年後に離婚。大正13年末、酒に酔って進行中の路面電車に仁王立ち、市内の禅寺報恩寺住職に助けられた。これを機に禅門に入り、出家得度。俳句は明治44年、自由律俳誌『層雲』に寄稿して荻原井泉水の門下となる。雲水姿で旅して句をつくり続けた。昭和7年、小郡町に「其中庵」を結庵したが、再びさすらい、昭和14年(1939年)松山市に「一草庵」を結庵。翌年、生涯を閉じた。享年57。 平成15年9月、山頭火が泊まった家(久保田邸)の敷地内に、山頭火句碑を建立。
瀬野川流域郷土史懇話会 協賛 瀬野・中野地区青少年育成簡保団体 平成23年9月改訂 |