大字小久喜字相野谷
明治維新後、国は輸送手段の一大改革として鉄道建設を推進し、その一環として明治18年(1885年)7月、日本鉄道会社により大宮−宇都宮間が開通しました。しかしその際、白岡駅は設置されませんでした。 そのため、地元有志は交通の利便化と産業の振興を願って、日本鉄道や帝国議会に駅の設置を請願し、駅用地の寄付も行いました。しかし、その後の日露戦争(1904〜1905)で設置は遅れ、再三の請願の結果、明治43年(1910年)2月11日になって、ようやく駅が開設されました。駅名は白岡八幡宮から名をとって「白岡駅」とされました。 「新設白岡車站之碑」は駅開設の5月に立てられたもので、開設までの苦労や、駅開設後に人々が利益追求に走ることを心配する内容などが、久喜の漢学者中島撫山の撰文により刻まれています。また、記念碑の寄付人名には久喜、岩槻、蓮田の人々も含まれ、周辺地域の人々も白岡駅開設に関心の高かったことがうかがえます。
白岡町教育委員会 |
正福院は白岡山西光寺杉本坊と号し、嘉祥2年(849年)慈覚大師円仁により草創されたと伝えられる。本尊は、慈覚大師の作といわれる薬師如来像である。創建当初より八幡宮の別当寺で天台宗であったが、建久6年(1195年)に改宗され、新義真言宗となった。 境内には、正徳3年(1713年)建立の寶篋印塔や樹齢400年といわれる彼岸桜がある。また、当寺の梵鐘には宮沢賢治の詩が刻まれており、山門を入った右手には「ひぐらしの丘」と称する塚があって、室生犀星の詩碑が建てられている。 この付近は、古くから開けたところで、当寺の墓地一帯が貝塚となっている。貝の種類はアサリ、オキシジミ、サルボウ、カキ、ハマグリなどで、出土する土器類は、縄文から弥生、古墳時代のものまでである。 |
靴 下 毛糸にて編める靴下をもはかせ 好めるおもちやをも入れ あみがさわらぢのたぐひをもをさめ 石をもてひつぎを打ち かくて野に出でゆかしめぬ おのれ父たるゆゑに 野邊の送りをすべきものにあらずと われひとり留まり 庭などをながめあるほどに 耐へがたくなり 煙草を噛みしめにけり |
童 子 やや秋めける夕方どき わが家の門べに童子(わらべ) ひとりたたずめり。 行厨(うちかひ)をかつぎいたくも疲れ わが名前ある表札を 幾たびか読みつつ 去らんとはせず その小さき影ちぢまり わが部屋の畳に泌み きゆることなし。 かくて夜ごとに来り 夜ごとに年とれる童子とはなり さびしが我が慰めとは なりつつ…… |
大正10年(1921年)5月、長男豹太郎誕生。 大正11年(1922年)6月24日、長男死去。 |
近代日本の代表詩人室生犀星氏の抒情詩2編、ともに長子の死を慟哭した『忘春詩集』(大正11年京文社刊)中の絶唱である。人の世の親の亡児への愛慕哀傷の限りをこめて当院ひぐらしの丘上の「童子の庭」の鎮魂の碑とする。 ここに御遺族室生朝子氏並びに当院檀信徒各位の御芳情と御協力に深甚の謝意を捧げる。 |
病(いたつき)のゆゑにもくちん いのちなり みのり に棄てば うれしからまし |
塵点の 劫をし 過ぎて いましこの 妙のみ法に あひまつ りしを |
仏は常にいませ どもうつつなら ぬぞあはれなる ひとの音せぬ暁に ほのかにゆめに見 えたまふ 康成書 「梁塵秘抄」より |
おもひたつことあり うたふらく すきかへす人こそなけれ敷島の うたのあらす田あれにあれしを |