2023年埼 玉

北浦和公園〜旧制浦和高等学校〜
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 明治29年(1896年)10月5日、埼玉県北足立郡浦和町に埼玉県第一尋常中学校開校。さいたま市浦和区常盤4丁目にここに浦中ありき」と書かれた碑がある。

さいたま市浦和区常盤9丁目に北浦和公園がある。

北浦和公園東側に旧制浦和高等学校の正門が復元されている。


埼玉県北浦和公園   舊制浦和高等学校跡

旧制浦和高等学校正門

旧制浦和高等学校ハ大正十年十一月八日第二十番目ノ官立高等学校トシテ創設サレ昭和二十二年四月ノ学制改革ニヨリ昭和二十五年三月最後ノ卒業生(第二十六回生)ヲ送リ出シテ閉校ソノ光輝アル二十八年間ノ歴史ノ幕ヲ降ロシタ

ソノ間五千四百十名ノ卒業生ヲ世ニ送ツタガソレラ有爲ノ青年ハ学術文化政治経済等ノ各分野ノリーダートシテ活躍シ戦後日本ノ復興ト繁栄ニ貢献シテキタ

埼玉県ナラビニ浦和市ハ同校ノ跡地ヲ公園トシテ整備シ県民ノ憩ノ場トシテ提供シタコノ門ハ旧制浦和高等学校ノ正門デ同校ノ姿ヲ今ニ伝エル唯一ノ構造物デアル

昭和六十二年十一月十五日

旧制浦和高等学校同窓会

正門と本館


大正11年(1922年)3月落成

浦和区文化の小径

旧制浦和高等学校

 北浦和公園と浦和北公園、常盤小学校までの敷地には、大正10年(1921年)から昭和25年(1950年)まで旧制浦和高等学校および学生寮がありました。北浦和公園東側には同校の正門が復元され園内に入る門の一つとなっています。

 当時学校の周りはクヌギ林とサツマイモ畑の続く自然環境の豊かなところでした。高い受験倍率を突破し選ばれた優秀な学生たちは、このような環境の中で勉学に励み、多くの本を読み、議論し、スポーツや芸術にいそしみ青春を謳歌したといいます。白線の入った学帽にマント姿の学生たちは「ほうば下駄」を履き浦和の町を闊歩したそうです。卒業後は帝国大覚へと進み、日本のリーダーとなった人物も多くいます。

 戦時中、学生たちの中には学徒出陣や学徒動員された者もおり、昭和20年(1945年)本校舎や講堂は焼夷弾を受け焼失しました。

 昭和24年(1949年)同校は埼玉大学へ包括され、翌年、最後の卒業生を送り出し閉校しました。その後、埼玉大学文理学部となり同44年(1969年)市内大久保に移転しました。

昭和5年(1930年)4月、金田一春彦は旧制浦和高等学校文科甲類に入学。

バンカラ像


昭和47年(1972年)、旧制浦和高等学校開校五十周年の記念日に建立。

彫刻道標 柳原義達

旧制浦和高等学校沿革

一、大正10年(1921年)11月8日勅令により第二十高等学校として創設され、初代校長に吉岡郷甫先生が任命された。
一、大正11年(1922年)4月12日第一回生の入学式が行われた。
一、大正13年(1924年)すべての建物が整ったので、岡田良平文部大臣臨席のもとに11月第三回創立記念式を兼ね校舎落成式が挙行された。
一、大正14年(1925年)第一回生卒業生を送り出した。
一、昭和10年(1935年)三代校長菊澤季麿先生は寄宿寮を「武原寮」と命名した。
一、昭和20年(1945年)5月空襲により講堂と本館を焼失した。
一、昭和22年(1947年)3月「教育基本法」「学校教育法」が公布され、旧制高等学校は新制大学に昇格吸収されることになった。
一、昭和23年(1948年)4月入学の生徒(第二十七回生)は最後の入学生となったが、同24年(1949年)3月第一学年修了と共に各地の新制大学に移っていった。
一、昭和24年(1949年)7月1日埼玉大学が創立され、本校は埼玉大学浦和高等学校と改称された。
一、昭和25年(1950年)3月最後の卒業生248名(第二十六回生)を送り出し、その光輝ある歴史を閉じた。

半藤一利は学制改革のため旧制浦和高等学校1年間で修了、東京大学へ進学。

武藏が原


武藏が原の末遠く
櫟林に闇落ちぬ
煙は低く雲迷ひ
世は陰慘と暮れ行けど
地に聳り立つ松の幹
陽に赤々と燃ゆるかな

燃ゆる思に胸溢れ
櫟林の奥に湧く
泉掬ふと分け入れど
迷羊遂に術もなく
丘辺に立ちて嘯けば
頬紅に染まるかな

道渾沌と闇深く
夕づく星の影もなし
いざや彼方の丘の上
薄紅に匂ひ出し
聖き光を懐かしみ
己が古巣に歸りなん

嗚呼滾々と湧き出づる
泉の美酒を掬ひつゝ
今宵ぞ明き灯の下に
互ひに酌まん友や誰れ
友よ腕を差し出せ
一葉緑我にあり

葉盃溢れ滴れば
膝に亂るゝ夜の花
泉の美酒の甘くして
愉楽の契果知らず
三年の月日泡沫と
消えんも淡き夢の寮

夜咲く花の落ち散りて
六寮闇も深き時
樹陰を忍ぶ月影ぞ
若き眠りの胸に射す
君よ聞かずや硝子戸に
夜を啜り泣く郷愁

作詞 藤倉寛三
作曲 諸井三郎

勉強になった。

埼玉県立近代美術館へ。

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