喜多院第27世住職であり、会津高田(現福島県会津美里町)出身、江戸時代初期、喜多院を復興しました。 将軍徳川家康公の信頼あつく、宗教政策の顧問的存在として助言を行い、将軍も度々、川越城また喜多院を訪れています。 108歳で遷化(亡くなる)後、朝延より「慈眼大師」の称号を賜りました。 |
山門は四脚門、切妻造で本瓦葺もとは後奈良天皇の「星野山」の勅額が掲げられていた。冠木の上の斗供に表には竜と虎、裏に唐獅子の彫ものがあるほか装飾らしい装飾もないが、全体の手法が手堅い重厚さをもっている。棟札も残っており、天海僧正が寛永9年(1632年)に建立したもので同15年の大火を免れた喜多院では最古の建造物である。 |
伝説によるとその昔仙波辺の漫々たる海水を仙芳仙人の法力によりとり除き尊像を安置したというが、平安時代、天長7年(830年)淳和天皇の勅により慈覚大師が創建された勅願寺で本尊阿弥陀如来を祀り無量寿寺と名づけた。その後鎌倉時代、元久2年(1205年)兵火で炎上の後、永仁4年(1269年)伏見天皇が尊海僧正に再興せしめられたとき、慈恵大師(厄除元三大師)を勧請して官田50石を寄せられ関東天台の中心となった。正安3年(1301年)後伏見天皇は星野山(現在の山号)の勅額を下した。更に室町時代、天文6年(1537年)北條氏綱、上杉朝定の兵火で炎上した 江戸時代、慶長4年(1599年)天海僧正(慈眼大師)が第二十七世の法統をつくが、同16年(1611年)11月徳川家康公が川越を訪れたとき寺領4万8千坪及び500石を下し、酒井備後守忠利に工事を命じ、仏蔵院北院を喜多院と改め、四代家綱のとき東照宮に200石を下すなど大いに寺勢をふるった。寛永15年(1638年)1月の川越大火で現存の山門を除き堂宇はすべて焼失した。そこで三代将軍家光公は堀田加賀守正盛に命じてすぐに復興にかかり、江戸城紅葉山(皇居)の別殿を移築して客殿、書院等に当てた。家光誕生の間、春日局(家光公の乳母)の間があるのはそのためである。その他慈恵堂(本堂)、多宝塔、慈眼堂、鐘楼門、東照宮、日枝神礼などの建物を数年の間に再建し、それらが今日文化財として大切に保存されているのである。 |
「星野山御建立記」によると、寛永15年9月に着手して翌16年(1639年)に完成、番匠は平之内大隅守、大工棟梁は喜兵衛長左衛門だったことがわかる。この多宝塔はもと白山神社と日枝神社の間にあった。明治45年道路新設のため移築(慈恵堂脇)されたが、昭和47年より復元のため解体が行われて昭和50年現在地に完成した。多宝塔は本瓦葺の三間多宝塔で下層は方形、上層は円形でその上に宝形造(ほうぎょうづくり)の屋根を置き、屋根の上に相輪をのせている。下層は廻縁(まわりえん)を回らし、軒組物は出組を用いて四方に屋根を葺き、その上に漆喰塗の亀腹がある。この亀腹によって上層と下層の外観か無理なく結合されている。円形の上層に宝形造の屋根をのせているので組物は四手先(よてさき)を用いた複雑な架構となっいるが、これも美事に調和している。相輪は塔の頂上の飾りで九輪の上には四葉、六葉、八葉、火焔付宝珠がのっている。この多宝塔は慶長年間の木割本「匠明」の著者が建てた貴重なる遺構で名塔に属している。
埼玉県教育委員会 川越市教育委員会 |
昭和6年(1931年)12月6日、高浜虚子は武蔵野探勝会で喜多院へ。星野立子・富安風生・中村草田男等同行。 |
喜多院といふのは大へん名高い寺ださうであるが、実は、僕はこの古名刹について何等の知識ももつて居なかつた。 「とにかく大僧正天海が居たといふんだから容易ならんお寺さ」 「天海はあの寺から江戸へやつて来ては家康を抑へたといふんだよ」 「坊主だつてあれくらゐになりやわるくない」 電車の中で誰彼の話である。どうでもいゝ。しかし天海といふ名前は何となく愉快だ、と思ふ。
『武蔵野探勝』(落葉の庭) |
十二月六日。武蔵野探勝会。川越、喜多院。 団栗を掃きこぼし行く帚かな 落葉踏んで行けば鉄條網のあり よく響く小鳥の声も人声も |
武蔵野探勝会は川越の喜多院といふお寺。だらだら坂 の枯芝の庭の下の方に古池があり、杉林があり、霜があ ちこちに残つてゐて寒い。みんな堂縁に冬日をあびて坐 つてゐる。 杉落葉雨流れたる跡のあり 方々に落葉のはきためてあるところがある。焚火跡に 大きな八ツ手の葉が焼け残つてゐる。 霜解けのかわきかゝりし芝生かな |
杉落葉雨流れたる跡のあり 霜解けのかわきかゝりし芝生かな
『立子句集』 |
永く居て薄き秋日にあたゝまる
『長子』 |
江戸時代の喜多院の寺域は現在よりも相当広く、当時鐘楼門は、喜多院境内のほぼ中央にあり、慈眼堂へ向う参道の門と位置づけられます。また、上層にある銅鐘を撞いて時を報せ、僧達の日々の勤行を導いたと考えられいます。 鐘楼門は、桁行3間、梁行2間の入母屋造、本瓦葺で袴腰が付きます。下層は角柱で正面中央間に両開扉を設け、他の壁面は堅板張の目板打です。上層は、四周に縁・高欄をまわし、角柱を内法(うちのり)長押、頭貫(かしらぬき)(木鼻付)、台輪でかため、組物に出三斗(でみつど)と平三斗(ひらみつど)を組みます。中備(なかぞなえ)はありません。正面中央間を花頭窓(かとうまど)とし、両脇間に極彩色仕上げの花鳥の彫物を飾ります。上層には、元禄15年(1702年)の刻銘がある椎名伊予藤原重休作の銅鐘を吊っています。寛永15年(1638年)の大火に焼け残ったともいわれますが、細部意匠などから判断して銅鐘銘にある元禄15年頃の造営と考えるのが妥当だと考えられます。
川越市教育委員会 |
天海僧正は寛永20年(1643年)10月2日寛永寺において入寂し、慈眼大師の謐号をおくられた。そして3年後の正保2年(1645年)には徳川家光の命によって御影堂が建てられ、厨子に入った天海僧正の木像が安置されたのが、この慈眼堂である。一名開山堂ともよび、桁行3間(5.4m)、梁間3間で、背面一間通庇付の単層宝形造(ほうぎょうづくり)、本瓦葺となっている。宝形造は、四方の隅棟が一ヵ所に集まっている屋根のことで、隅棟の会するところに露盤があり、その上に宝珠が飾られている。
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