貞享4年(1687年)、肥前鹿島藩主鍋島直朝公の夫人花山院萬子媛が朝廷の勅願所であった稲荷大神の御分霊を勧請された稲荷神社。 |
左馬とは馬の字を左右逆に書いたもので、 「まう(舞う)」に通じ、舞は祝宴の席で催されることから、縁起が良いとされてきました。 また左馬は、「右に並ぶものがいないほど傑出した才能」を表し、さらには馬は左側につまずかないことから、 「長い人生をつまずくことなく過ごせる」という意味を持つと言われています。 加えて、普通は人が馬を引くものですが、左馬は逆に馬が人を引き寄せる様子を表し、千客万来・家業繁栄につながるとされたり、「馬」と言う字の下の部分がお金を入れる巾着袋の形に似ているため財運に恵まれると言われたりもしています。 これらの言い伝えにより、左馬の文字は古来より人々の篤い信仰を集めてきました。 |
一条兼良による『源氏物語』の注釈書である『花鳥余情』には「備前掾(びぜんのじょう)橘良利」は肥前国藤津郡大村の人なり。出家して名を寛蓮という。亭子院(宇多天皇)に仕え、殿上法師となる。亭子院山踏し給う時、御供しける由、大和物語に載りはべり。碁の上手なるによって碁聖という。延喜13年(913年)5月3日、勅を奉じて碁式を作り、之を献ず。」とあります。 橘良利つまり寛蓮は平安時代の人で、当代随一の囲碁の名人であったことから日本で最初に碁聖と呼ばれました。「碁聖」は傑出した囲碁の名人に対する尊称で、現代の囲碁の7大タイトル戦の一つともなっています。また、寛蓮の故郷にちなんで、昭和27年(1952年)から毎年春に祐徳稲荷神社において「祐徳本因坊戦」が開催され、神社の東山外苑にある「碁聖寛蓮之碑」には歴代の優勝者が記されています。 また鹿島4代藩主鍋島直條(なおえだ)がまとめた『鹿島志』で、橘良利の旧居ではないかと推定されている通称「橘園」が行政区にあります。
鹿島市 |
大正9年(1920年)10月20日、斎藤茂吉は祐徳稲荷神社を訪れている。 |
十月二十日。小濱發、零時二十二分彼杵著、夕べ嬉野著 旅にして彼杵神社の境内に遊楽相撲見ればたのしも 祐徳院稲荷にも吾等まうでたり遠く旅来しことを語りて 嬉野の旅のやどりに中村梧竹翁の手ふるひし書よ |
昭和7年(1932年)2月29日、種田山頭火は祐徳稲荷神社へ参拝。 |
朝、裕徳院稲荷神社へ参拝、九州では宮地神社に次ぐ流行神だらう、鹿島から一里、自動車が間断なく通うてゐる、山を抱いて程よくまとまつた堂宇、石段、商売的雰囲気に包まれてゐるのはやむをえまいが、猿を飼うたり、諸鳥を檻に閉ぢこめてあるのは感心しない、但し放ち飼の鶏は悪くない、十一時から四時まで鹿島町行乞、自他共にいけないと感じこ(マヽ)とも二三あつた。 |