轟の滝は、約2500万年前の畑津頁(はたつけつ)岩層という堆積岩が広がる台地の上に数百万年前頃から始まった火山活動によってできたものである。 火山活動によって不動山の虚空蔵山(こくんぞうさん)を形成したり、堆積岩を貫いた溶岩流により段差を生じたり、川の浸食により軟らかい堆積岩は削り取られたりして現在のような滝の景観をつくりだしたものである。 滝の高さは11m、滝壺の面積は2500平方メートル、平坦部にできた珍しい滝で、滝をつくる岩は溶岩が冷えたもので、その上流にも広く露出している。滝下の川底には、削られた2500万年前の堆積岩が広く分布している。 8世紀に編さんされた肥前国風土記には「川(塩田川)の源に淵(滝壺)あり、深さは二丈(約4メートル)ばかりなり、岩壁は嶮峻(さか)しくして垣のごとくめぐれり。年魚(あゆ)多(さわ)にあり。」と記され、奈良時代にすでにこの滝が知られていたことがうかがえ滝の轟く音により位置を知る目印になったとも思われる。 この滝は、岩屋川内山系と不動山山系の連峯から湧出する清らかな水がそれぞれに流れ出し、塩田川として合流したのちに滝壺へと流れ込んでいる。
嬉野町 |
茂吉は大正6年から大正10年まで長崎医専(現在長崎大学医学部)精神科教授の任にあったが、そのおり病を癒すため大正9年10月嬉野町に滞在、和歌数百首を詠んだ。 |
大正9年(1920年)10月20日、斎藤茂吉は小浜温泉から嬉野温泉へ。祐徳稲荷神社にも参詣している。 |
国立病院機構嬉野医療センターにも茂吉の歌碑の歌碑があるはずだったが、分からなかった。 |