江戸時代、この辺りには佐賀城二の丸がありました。佐賀城は本丸、二の丸、三の丸などで構成されていましたが、享保11年(1726年)4代に藩主鍋島吉茂公の時代、片田江より出火の佐賀城大火災によりほとんど焼失してしまいました。2年後に二の丸は再建され、天保6年(1835年)、10代直正公の時代に再び焼失するまでの約100年間、藩政の中枢でした。 |
大正2年(1913年)、鍋島直正公像建立。武石弘三郎作。 昭和19年(1944年)、戦時下の金属供出で撤去された。 |
鍋島直正公は文化11年(1814年)第9代藩主鍋島斉直公と鳥取藩主池田家よりの正室幸姫の子として、江戸桜田の佐賀藩上屋敷で誕生しました。薩摩藩主の島津斉彬公とは、生母が姉妹であることから従兄弟関係にあります。公は幼少時より文武両道の稽古に励み、長じては馬術や槍術を好み、また博学で漢詩を能くし、書もまた名手の評価を受けていました。 直正公が第10代藩主になったのは数え年17歳の天保元年(1830年)。それより文久元年(1861年)に隠居して閑叟と名乗るまでの30年にわたり藩政の指揮を執り、幕末の難局を高い見識と先見性をもって指導しました。 この間、公は自ら藩校弘道館や調練場、あるいは長崎警備の現場などにも足を運び、視察激励したことはよく知られ、藩の重役や藩士らからも頻繁に意見を聞き、藩吏の人選にも留意するなど、格式や先例重視の当時にあって人材を大切にしながら、個性豊かな藩士たちを統率する卓越したリーダーでもありました。 別邸の神野御茶屋は日を限って藩士や領民に開放、粗衣粗食を自ら実行し、罪人の死罪執行の日には魚肉を遠ざけたなど数多くのエピソードが残っています。公は、全ての領民をわが子と思い罪人が出るのも政治の至らなさゆえと己を責め、藩をあげて苦楽を共にするという考えの持ち主でした。 公が名君たるゆえんの一つは、藩政改革を推進するとともに、科学技術や軍事・医療などの各分野で、大きな視野から西洋の新知識・新技術を摂取したことが挙げられます。その背景としては、公の強いリーダーシップのもと、藩内の統制が取れていたこと、外国に対する日本の自立や幕府・諸藩に対する佐賀藩の独立的な立場を追求したこと、さらには異文化への探究心や、困難に打ち克つ強い意志を持続させた点―などが挙げられるでしょう。 薩長土肥の四藩による版籍奉還が行われた明治2年(1869年)、直正公は議定、蝦夷地開拓使長官に任命されます。旧大名としては最高位の大納言まで昇進しましたが、惜しくも明治4年(1871年)1月18日、病のため数え年58歳で永眠しました。その功績に対し。同年に正二位、明治33年(1900年)には従一位が追贈されました。 昭和8年(1933年)、直正公を祀る佐嘉神社が創建され、今もなお同社の御祭神として市民の尊崇をうけており、公が生前愛した景勝地川上に程近い春日御墓所から佐賀の町を見守っています。 |
文政13年(1830年)、数え年17歳で第10代藩主となった鍋島直正公がまず取り組んだのは藩の財政再建でした。自ら率先垂範しつつ領民に律儀な行いや質素倹約を求めるとともに、藩庁の整理改革を進め、立て直しに成功しました。その余慶は堅実な佐賀人気質として今に遺されています。 藩財政の基礎となる農業については小作料免除など零細な農民を保護し、安定的な年貢収入を目指しました。また、藩内の商品の保護育成に心を砕き、積極的な農業奨励により藩の財政を好転させました。 こうした藩政改革をを推進するため、公は藩校弘道館を北堀端に移転拡張し、人材の育成に力を注ぎました。この結果、藩士たちは単に学問だけではなく、文武の修業を通じて質素な佐賀藩独特の気風を身に着け、藩に貢献できる実用的な人材に成長していきました。 儒学のほか、蘭学にもとくに力を入れ、広く藩内の医師には西洋医学を学ばせました。医師免許を制度化したほか、天然痘の予防のための種痘を、嗣子直大公を初めとして領内くまなく藩費負担で広めたことは、地域医療に対し責任を持つ近代的な社会福祉のさきがけともいえます。現在の佐賀県医療センター好生館は直正公が設けた医学寮好生館の後身です。 佐賀藩が代々受け持ってきた任務に長崎港の警備があります。ナポレオン戦争やアヘン戦争の影響は鎖国政策をとる極東の日本までも容赦なく襲い、西洋列強のアジア進出の高波が次々に押し寄せていました。公は長崎港の守りを強化する対策として長崎湾口に浮かぶ島々に砲台を築造するとともに、城下の築地反射炉において日本で最初の鉄製大砲の鋳造を成功させます。 米国ペリー艦隊の来航直後に、品川御台場に備える大砲を幕府より依頼され、50門を受注したことは佐賀藩の先進性を物語っています。このほか、理化学分野の研究・開発を担う精煉方を設けて蒸気機関や電信機の研究を行い、蒸気船を含む洋式船の運用や修理・造船のための艦隊基地三重津海軍所を充実させました。 こうして佐賀藩は長崎を通じて西洋の知識や技術を摂取することにより、国内随一の軍事力を培い、幕末屈指の雄藩となりました。アームストロング砲に代表される、その軍事力は戊辰戦争の決着を早め、公が訓育登用した佐賀の英才たちは、明治の新国家建設に大きく貢献することとなりました。 |
1820年頃アメリカで製造されて幕末に輸入され、かつて東京都渋谷区の旧鍋島邸に置かれていたもの(現在は戸栗美術館所蔵)を原型とする複製品です。 |
寛政5年(1793年)、ラクスマンは幕府から長崎港に入港する許可証を与えられました。レザノフはこのときの許可証を持って、文化元年(1804年)9月長崎に来航しました。ロシアの正式な使節で、日本人の漂流民も送り届けましたが、通商は認められず、厳しい扱いをうけました。そのため、ロシアに帰る途中で、樺太や択捉島などを攻撃しました。 |
文化5年(1808年)8月15日、イギリス船が長崎港に不法侵入した事件です。オランダ国旗をかかげて入港し、オランダ商館員二人を人質にして、燃料や食料などを要求しました。この責任をとって、長崎奉行の松平康英は切腹、佐賀藩も、九代藩主鍋島斉直の逼塞をふくめた処分をうけました。 |