田間を過て人家あり。扇町といふ。これ佐嘉城の入口なり。左に天滿宮あり。又若宮あり。左へ曲りて板橋をわたり門に入る。 |
本丸御殿は慶長13年(1608年)から慶長16年までの佐賀城総普請により造られましたが、享保11年(1726年)の大火で焼失しました。その後、約110年間は再建されることなく、藩政は二の丸を中心として行われていました。 ところが、この二の丸も天保6年(1835年)に火災に見舞われ、藩政の中核を失ってしまいました。10代藩主鍋島直正は、それまで分散されていた役所を集め、行政機能を併せもつ本丸御殿の再建に着手しました。 この鯱の門は、その時、本丸の門として建設されたもので、天保9年(1838年)の6月に完成したものです。 明治7年(1874年)の佐賀の役で、佐賀城は戦火に見舞われました。鯱の門にはその時の弾痕が残り、当時の戦闘の激しさがしのばれます。 門の構造は、二重2階の櫓門に、一重2階の続櫓を組み合わせたものです。屋根は本瓦葺、入母屋造りで、大棟の南北には、佐賀藩の御用鋳物師谷口清左衛門の手による鯱がおかれ、鍋島氏36万石にふさわしい規模・格式を有しています。
佐賀市教育委員会 |
嘉永3年(1850年)9月2日、吉田松陰は長崎に遊学する途中で佐賀を訪れている。 |
一、二日 雨。中原を發し神崎驛に至る。驛は神崎郡中なり。佐嘉に至る。此の邊稲田萬頃、中に溝渠ありて界す。溝中夥しく菱を生ず、市上至る處鬻がざるはなし。皆此の溝に取るなり。此の溝平日は灌漑に便す、事あるに臨みて、因つて以て壘を築かば、城を築くこと容易ならん。 |
明治40年(1907年)8月12日、与謝野寛、北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野万里の5人は柳川から筑後川を渡り佐賀に着く。 |
濁れる河を渡ると佐賀迄鉄道馬車がある。乗る。よく見ると品川と新橋との間を通つてよく脱線したそれの御古であつた。紋章がその儘残つて居る。L生が学校の行き返りに乗つた馬車である。 思ひきや、筑紫のはてに品川の馬車を見むとは 旧知に会ふ感がした。馬も同じ馬かも知れぬ。ひどく鈍い。二時佐賀着、佐賀の諸君と佐賀城址を一周し、途に新刊二三種を購ふ。
「五足の靴」(雨の日) |