国道からこの一帯を「山里丸」といい、ここは秀吉が在陣中居住していた跡です。 その広さは約30,000uで、本城の本丸、二の丸、三の丸と共に重要な部分を占めていました。 この一帯に数寄屋(257u)添の間(360u)上台所(80u)などの大家屋が建ち並んでいました。これらの建物やその装飾も全部各国に割りつけて建築させ、その美を競ったといいます。 現在の広沢寺の建物は、大正年間の改築であります。 |
この蘇鉄は文禄慶長の役(1592―1598)明及び朝鮮戦役にあたり当名護屋在陣中の太閤秀吉公に加藤清正外征記念として持ち歸りしものを手植せしと伝えています。樹高は約3メートル、根廻り約2.5米高さ3米主要分枝が40本以上で1本小樹林を呈する珍らしいもので県内代表的な名木の1つです。広沢寺は太閤居館の跡で当時は淀君、松の丸殿、広沢局等の女性と共に住んで居られた。太閤は慶長3年8月18日戦役中没せられ、公の遺命に依って外戦軍は同年10月全軍引上げ各々国へ帰りました。 広沢局はその時26才の若さで意に決するところ有って黒髪をたち尼となって太閤を始め兄越前守や戦没者の冥福を祈り60余才で亡くなりました。局の墓は寺山麓に東西し苔むした五輪の搭です。太閤遺髪塚は当地出身の今井安信氏の篤志にて建立されたものです。 広沢寺は広沢局の名をそのまま寺号とし、曹洞宗に属します。 御本尊は局生前中の念佛観世音菩薩を奉安してあります。 |