近松寺は、旧唐津藩主小笠原家の菩提寺。庭園は曽呂利新左ヱ門の作で一名舞鶴園ともいい織部燈籠別名キリシタン燈籠が3基あります。 山門は名護屋城の資材を移したと云われ、文豪近松門左ヱ門の墓があります。
唐津市 |
元禄6年(1693年)1月20日、深川芭蕉庵から大垣の木因に宛てた書簡にある。 |
明治40年(1907年)8月13日、与謝野寛、北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野万里の5人は、近松寺を出て虹の松原に向かう。 |
唐津近松寺を出でて鉄道馬車に乗る。正面を見て来た来たといふと中途で馬を外した。何事ならむと思へば遙か向ふの方から煙を吐いて来るものがある。今機関車が来るのださうだ。紫の烟をばつばつと断続的に吐きながらがたびしやとやツて来たのを見るとべらべらの鉄の函だ、極くプリミチーヴな玩具の様な石油機関車である。
「五足の靴」(領巾振山) |
昭和7年(1932年)1月19日、山頭火は虹の松原を散歩、浜崎町の栄屋に泊まる。20日、唐津市街行乞。 |
一月廿日 曇、唐津市街行乞、宿は同前。 九時過ぎから三時頃まで行乞、今日の行乞は気分も所得もよかつた、しみじみ仏陀の慈蔭を思ふ。 こゝの名物の一つとして松露饅頭といふのがある、名物にうまいものなしといふが、うまさうに見える(食べないから)、そしてその本家とか元祖とかいふのが方々にある。 小鰯を買つて一杯やつた、文字通り一杯だけ、昨夜の今夜だから。 ・けふのおひるは水ばかり ・山へ空へ摩訶般若波羅密多心経 |
御手紙ありがたいと申す外ありません。 山へ空へ 摩訶般若波羅密多心経 御健康を祈つてやみません。
昭和7年2月24日、木村緑平宛書簡。 |
『山頭火句碑集』(防府山頭火研究会)によれば、36番目の山頭火句碑である。 |
門左衛門が少年の頃、近松寺の四代遠室禅師について、得度(出家)の後、京師(京都)に至り姓名を近松門左衛門と改め、浄瑠璃作家となり、享保9年(1724年)11月浪華で死去し、遺言によって近松寺の墓地に埋葬しています。
唐津市 |
曽呂利新左ヱ門の築庭と称せられ、正面の築山は満島山(現在の舞鶴公園)を写し、左側数本の松は虹の松原を形とり、右側は現在の西の浜を模し、全面の白砂は海面になぞられ、全体を総して唐津湾頭の風景を模写した図案的な築庭であります。
唐津市 |
小笠原記念館は旧藩主小笠原家をはじめ、歴代唐津藩及び日本の文運推進に貢献された諸先覚の記念品などを展示して、その遺芳を顕彰するために建設されたものです。記念館の敷地は小笠原廟所を改装したもので、これに早稲田大学今井兼次教授担当の設計を竹中工務店の施行により昭和31年5月25日に完成したものです。
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