唐津城は慶長13年(1608年)に完成した平山城です。城を築いた寺沢志摩守広高は豊臣秀吉の側近で、築城には名護屋城の解体資材を用いたといわれています。 城は本丸・二ノ丸・三ノ丸・外曲輪に分かれ、本丸には天守台、二ノ丸には藩主の住居と藩庁があり、三ノ丸にはほとんどの藩士が住み、外曲輪には町人が居住し町奉行所がおかれていました。 城には寺沢氏以後は代々譜代の大久保・松平・土井・水野・小笠原の諸氏が入城しました。寺沢氏の12万3千石ではじまり、廃藩前は6万石でした。明治10年から本丸跡は現在の舞鶴公園として一般に開放され、藩主の住居は高校敷地となっています。 周囲約1キロ、面積4.3ヘクタール、海抜43メートルにそびえる現在の唐津城天守閣は天守台跡に慶長様式で、文化観光施設として昭和41年に完成したものです。天守閣は5層5階、地下1階で博物館、展望所等があり、展望所からは、松浦潟の全景が一望におさめられます。また唐津城は別名舞鶴城ともいわれ、観光唐津のシンボルとして皆様に親しまれています。 |
喀血後の療養を兼ね大正9年8月30日長崎からこの地を訪れた歌人斎藤茂吉はこの唐津詠歌ほか24首を残し9月11日古湯に発った。 |
延宝6年(1678年)夏、山口素堂は江戸を立ち、長崎赴く。帰途、肥後唐津で越年。 |
此ごろの亀を 二万の里唐津と申せ君が春
『富士石』 |
貞亨2年(1685年)3月、大淀三千風は唐津を訪れている。 |
偖(さて)唐津の城。海中に峙(そばたち)。町屋千軒繁昌の地なり。かつ又藤原廣嗣廟舎鏡宮。松浦川。草野山。浮嶽。この峰より釜山海みゆ。衣干山。神集(かれは)島。此外限なき名所名所。略。
『日本行脚文集』(巻之四) |