明治40年(1907年)8月4日、与謝野寛、北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野万里の5人は、「二軒茶屋」から領布振山に登る。 |
登りつめると池がある。頂きの端(はづれ)、老いたる松の唯一本(ひともと)立てる下に腰打ち下して四方を眺む、日はまだ高い、白い帆を下げた狭手彦の船が次第に遠ざかる、麾(まね)けども歸らぬ、女は聲を限りに『我が狭手彦』と呼ぶ、白い帆が微かに震ふ、女は領巾(ひれ)を外してひらひらと舞はした。緑の山に白い領巾が靡いてゐる。青い海に白い帆が走つてゐる。古への夢を今見て、一しほ趣が深い。
「五足の靴」(領布振山) |
この句は昭和3年、虚子が、虹の松原で下車して鏡山(領布振山)に登った折に詠んだ句です。 |
萍の茎の長さや山の池 十月八日、松浦小夜姫の領布振山に吟行。禪寺洞、烏城等先導汽車 にて虹の松原に下車、それより領布振山にのぼる。頂上より虹の松 原、唐津を展望。山上の鏡ヶ池より稲荷神社の前にて遠く沖の島、 壹岐、對島、近き島々の中に神集島など指さる。 |
奈良時代初期の貴族・歌人。『万葉集』には78首が撰ばれており、大伴家持や柿本人麻呂、山部赤人らと共に奈良時代を代表する歌人です。 |
日本の三大悲恋物語といわれる松浦地方に伝わる伝説が、「松浦佐用姫」の物語です。古代、朝廷の命令で朝鮮半島の任那、百済の救援に派遣された青年武将大伴狭手彦は、停泊地である松浦の地で土地の長者の娘「佐用姫」と恋に落ちます。やがて、出帆の時が来て、別離の悲しみに耐えかねた佐用姫は鏡山に駆け登り、軍船にむかって身にまとっていた領巾を打振りました。それでも名残はつきず、佐用姫は山から飛び降り、呼子加部島まで追いすがったものの、すでに船の姿はなく、悲しみのあまり7日7晩泣き続け、ついに石に化したというものです。 この物語は、万葉の歌人たちにも数多く詠まれるものとなり、以後詩歌や能などの文学や演劇の題材にもなりました。 鏡山はこの故事から「領巾振山」と呼ばれるようになったといいます。 平成14年3月建立
贈 唐津レインボーライオンズクラブ |
領布振りし昔の浜の草桔梗
『春の鳶 改訂版』 |
福岡より唐津線に乗り西行するこの旅に、朱鳥という青年も一緒であった。唐津駅下車、松浦佐用比売が新羅征討に向う夫に別れるのがつらくて石に化身したという伝説に興ひかれて、鏡山を仰げるところにいった。大きく彎曲する唐津弯はただ白く光るばかりである。虹の松原は右側にかたまって茂っている。豊公に叱られて以来松原に蝉が鳴かぬという話は、いぶかしく思いながらも楽しませてくれた。 松浦佐用比売の故事は万葉集に度々出る歌に詠まれている。一首だけ引例すると、「海原の沖行く船を帰れとか領巾振らしけむ松浦佐用比売(巻五―八七四)。 佇むわが足もとに草桔梗が糸のように揺れ咲いている。誰の目にもつかないほどかすかな草である。この草の名を知ってまだ間もない私は、早速摘みとって人に示し、受売りして教えたのである。いとしかりし姫の心よ。 |
青年武将・大伴狭手彦と、別離の悲しみに耐えかねた佐用姫は鏡山に駆け登り、軍船にむかって身にまとっていた領巾を打振りました。それでも名残はつきず、佐用姫は山から飛び降り、呼子加部島まで追いすがったものの、すでに船の姿はなく、悲しみのあまり7日7晩泣き続け、ついに石に化したといいます。 |
昭和40年(1965年)5月8日、荻原井泉水は唐津を訪れている。 |
唐 津 鏡山はつつじさく鏡の池がうつす空 | 五月八日 |
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