斎藤茂吉は山形に生れ、東京大学医科で精神病学を専攻しました。学生時代には正岡子規の短歌に心をひかれ「アララギ」創刊とともに同人となって活躍し多くの歌集を残し、近代歌壇の最高峰をなしたものであります。 茂吉は大正9年9月11日から10月3日までここ古湯温泉に滞在し、静養。(当時36才)その間ここの山川を歌った作品37首は茂吉第三歌集『つゆじも』に収録されました。 その後、山紫水明、風光明美な古湯の地は温泉とともに広く世に知られるようになりました。文化人などここを訪れる人びとは、年々多くなり、茂吉と古湯とは切り離せないものとして浮び上がったのであります。 そこで県内の知名士をはじめ地元有志の発起により、歌壇の振興に資するとともに茂吉の遺徳を敬慕し永くこれを記念するため昭和37年9月この歌碑がここ古湯小遊園地に建立されたのであります。
富 士 町 |
歌人であり医学博士でもあります齋藤茂吉先生は、大正6年12月長崎医学専門学校教授として赴任し、同9年9月11日から10月3日まで静養のために古湯温泉に滞在されました。その間、ここで詠まれた38首は、第3歌集『つゆじも』に収載されております。 先生の滞在記として第2歌集『あらたま』編輯手記の一節には、 |
九月十一日の朝唐津を去り、僕一人になつて、佐賀県の南山村古湯温泉に来た。ここへ来て十日目程から痰がだんだん減つて行つて二十三日から血の色が附かなくなつた。その二十三日にはじめて『あらたま』の草稿の入つてゐる風呂敷をあけて、心しづかに少しづつ歌を整理して行つた。その間に数日風をひいて寝たが、それでもやめずに到頭九月三十日にどうにか編輯を了へた。山中のこの浴場も僅かの間にひつそりとして行き、流れる如き月光が峡間を照らしたり、細く冷たい雨が終日降つたりした。簇がり立つて咲いてゐた曼珠沙華も凋んで、赭く金づいた栗が僕のゐる部屋の前にも落ちたりした。(中略) 以上十月一日古湯温泉にて記 |
と記されてあり、先生とゆかりの地古湯温泉に住む地元私どもは誇りに思うものであります。 今、富士町は、文化の町づくりと共に人と自然の好ましい関わり、共存ということにこだわりながら、まず自然を護り、清流のシンボルともいわれているカジカガエルのモニュメント配した公園なども作っておりますが、かつて齋藤茂吉先生の散策路でもあったこの公園に、先生が心身を癒した古湯温泉に感謝をして詠まれた歌の碑を建立し、先生を偲ぶよすがとする次第です。 平成5年3月
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平成17年(2005年)10月1日、富士町は佐賀市・諸富町・大和町・三瀬村と合併し、佐賀市となった。 |