江戸時代初期の中之島周辺は、葦が生い茂る低湿地でした。それが豪商・河村瑞賢の治水工事によって、水運に有利な一等地となり、全国諸藩の蔵屋敷が建ち並ぶようになりました。大阪が「水の都」「天下の台所」と呼ばれた時代です。 新社屋の敷地には中津藩(大分)、延岡藩(宮崎)、壬生藩(栃木)などの蔵屋敷があり、発掘調査で当時の建物跡や茶碗・人形などの遺物が見つかっています。 1834年には中津藩の蔵屋敷で福沢諭吉が生まれました。明治・大正時代には官庁や学校、病院(のち大阪大学医学部附属病院)の用地として市民に親しまれました。 その後、2008年に朝日放送が移転して参りました。 |
幕末明治の大教育家福沢諭吉先生こゝに生る。時に天保5年12月12日(西暦1834年)1月10日)。こゝは舊豊前中津藩倉屋敷の長屋跡である。先生の父百助一面に於いて、経學者、詩文家であったが、然も、理財の道に精通した循吏であって、金穀會計の俗役に奔命して其生涯を終った人である。彼は妻お順が、大きな、瘠せて骨太な5番目の子を産んだ時「これはよい子だ、大きくなったら寺へ遣って坊主にする」と語ったと傳へられてゐる。封建門閥の世に下級士族が其子をして名を成さしめる道はこれを佛門に入らしめる以外にはなかったのであらう。當時に於いて、この子が後年、西洋文明東道の主人となり、封建的観念形態の打破に努力するに至る将来を誰が豫見し得たであらうか。 |
天ハ人ノ上ニ 人ヲ造ラズ 人ノ下ニ 人ヲ造ラズ |