謡曲「江口」は、「浮世は仮の宿」とする大乗的な暗示を主題とした香り高い曲である。 西国行脚の旅僧が、攝津国江口の里に着くと里女に会い、昔西行法師が宿を借りた時の歌問答を聞かせて、自分は遊女江口の君の化身であると告げて消え去った。旅僧が跡を弔っていると、船に乗った江口の君が侍女と共に現われ、舟遊びの様や歌舞を奏して楽しむうちに、遊女江口の君は普賢菩薩と化して白雲に乗り西の空に消えるという筋を持ち、深遠な仏教の哲理を説く夢幻境の世界を見せている。 贈答歌(新古今和歌集巻十) |
世の中をいとふまでこそ難からめ |
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仮の宿りを惜しむ君かな | 西 行 |
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世をいとう人とし聞けば仮の宿に |
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心止むなと思ふばかりぞ | 江口妙 |
謡曲史跡保存会 |
当寺は摂津の国中島村大字江口に在り、宝林山普賢院寂光寺と号すも、彼の有名な江口の君これを草創せしを以って、一に江口の君堂と称す。 抑も江口の君とは、平資盛の息女にして、名を妙の前といい、平家没落の後、乳母なる者の郷里、即ち江口の里に寓せしが、星移り月は経るも、わが身に幸巡り来らざるを欺き、後遂に往来の船に樟の一ふしを込め、秘かに慰さむ浅ましき遊女となりぬ。 天皇第七十九代六条帝の御宇、仁安2年長月20日あまりの頃、墨染の衣に網代笠、草から草へ旅寝の夢を重ねて、数々のすぐれた和歌を後世に残せし西行法師が浪華の名刹天王寺へと詣でての道すがら、この里を過ぎし時、家は南・北の川にさし挟み、心は旅人の往来の船を想う遊女のありさま、いと哀れ果敢なきものかと見たてりし程に、冬を待ち得ぬ夕時雨にゆきくれて、怪しかる賎が伏家に立寄り、時待の間の仮の宿を乞いしに、主の遊女許す気色見せやらず、されば西行なんとなく 世の中をいとふまてこそかたからめかりのやとりをおしむ君かな と詠みおくれば、主の遊女ほほえみて 世をいとふ人としきけは仮の宿に心とむなとおもふばかりそ と返し、遂に一夜を仏の道のありがたさ歌をたしなむおもしろさを語り明かしき。 かくて夜明けと共に西行は淀の川瀬を後にして雪月花を友とする歌の旅路に立ち出ぬ。出離の縁を結びし遊君妙女は心移さず常に成仏を願う固き誓願の心を持ちおれば、後生はかならず救わるべしと深く悟り、後仏門に帰依して、名を光相比丘尼と改め、此の地に庵を結びぬ。又自らの形を俗体に刻み、久障の女身と難も菩提心をおこし、衆生を慈念したるためしを見せしめ知らしめ、貴婦賎女乃至遊君白拍子の類をも遍く無上道に入らしむ結縁とし給う。 かくて元久2年3月14日、西嶺に傾く月とともに身は普賢菩薩の貌を現わし、大牙の白象に来りて去り給いぬ。御弟子の尼衆更なり、結縁の男女哀愁の声隣里に聞こゆ、終に遺舎利を葬り、宝塔を建て勤行怠らざりき。 去る明応の始、赤松丹羽守病篤く医術手を尽き、既に今はと見えし時、この霊像を17日信心供養せられければ、菩薩の御誓違わず夢中に異人来りて赤松氏の項を撫で給えば忽ちち平癒を得たり。 爰に想うに妙の前の妙は転妙法輪一切妙行の妙なるべし。されば此の君の御名を聞く人も現世安穏後生善処の楽を極めんこと疑いあるべからず。 其後元弘延元の乱を得て堂舎仏閣焦土と化すも宝塔は恙し。宝像も亦儼然として安置せり。正徳年間普聞比丘尼来たりて再建す。即ち現今のものにして、寺域はまさに660余坪、巡らすに竹木を以てし、幽遠閑雅の境内には君塚・西行塚・歌塚の史蹟を存す。 然れども当寺に伝わる由緒ある梵鐘は遠く平安朝の昔より淀の川を往き交う船に諸行無情を告げたりし程に、はからざりき遇ぐる大戦に召取られ、爾来鐘なき鐘楼は十有余年の長きにわたり、風雪に耐えつつも只管再鋳の日を発願し来りしに、今回郷土史蹟を顕彰し、文化財の護持に微力を捧げんとする有志相集い梵鐘再鋳を発願す。幸い檀信徒はもとより、弘く十方村人達の宗派を超越せる協力と浄財の寄進を得たるを以って、聞声悟導の好縁を結ぶを得たり。(昭和29年9月完成) |
昭和14年(1939年)3月19日、星野立子は大阪玉藻句会で江口の君堂へ。 |
三月十九日。大阪玉藻俳句会。新淀川堤、君堂にゆく。 寒い日であつた。 風花に少しも濡れず旅衣 訪はねども尼出て会釈名草の芽 君塚を見、西行塚を見、いろいろと話をきく。尼寺の 庭には名草の芽が美しく出てゐた。それに舞ひ降る風花 は本当に美しく、駈けまはつてゐる子供等が絵のやうに 眺められた。
「続玉藻俳話」 |
昭和26年(1951年)11月8日、高野素十は江口の君堂を訪れている。 |
君 堂 尼二人小豆莚も二枚かな
『野花集』 |
菜の花も減りし江口の君祭 | 夜半 |
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梅雨茸も小さくて黄に君の墓 | 木国 |
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早乙女の笠預け行く君の堂 | 青畝 |
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鳥威しきらりきらりと君堂に | 素十 |
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十三夜ともす君堂田を照らし | 若沙 |
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冬鵙や君の堂へと水に沿ひ | 年尾 |
昭和34年(1959年)7月、阿波野青畝は江口の君堂で流燈会。 |
流燈の帯のくづれて海に乗る
『甲子園』 |
西行と遊女妙との歌問答のあった江口の里に君堂という尼寺が遺っている。戦後に誹諧の釣鐘が納まったのが縁で俳人はよく訪ねるところ。 親しかった樫野南陽画伯の冥福をいのるべく流燈会をしたのがついに定例になった。お盆になると淀川の水へ手製の燈籠をはこんで流した。尼もはだしで瀬石をふまえ、回向の鉦を鳴らした。それが句材にもなって評判がよかったのである。 くの字に大曲りする川下の涯は見えぬが、そのずっと先が大阪湾。はじめ行儀よく一列に燈籠がすすんでゆくが、いつとなく乱れる。遠いあたりでとどまっている。まだそれらの火が消えずに流れているらしい。私らは大阪湾までそのまま流れついてほしいという願いであった。 後年この作が句碑となって君堂の境内に建った。あおあおと緑青を碑面にたらして日一日と古びようとしている。 |
昭和36年(1961年)5月8日、星野立子は江口の君堂で催された大阪玉藻句会に参加。 |
十月十六日 大阪玉藻句会が江口の君堂で催されて参加 坤者さ んも御来会 去った日の思い出が次々と―― |
浮み来し思ひ出秋の雲白し 君堂に来し秋晴の人々よ 思ひ出は鐘楼にあり秋晴になし |
昭和39年(1964年)4月13日、高浜年尾は江口の君堂を訪れている。 |
四月十三日 二百十日会 淀川沿ひ江口、君の堂 中程は早き流れや春の川 蛇ゐると草摘む媼さり気なく 春の田の水漬きわたりし広さかな 蛙鳴き埋立てられて行く水田 |