明治43年(1910年)7月10日、河東碧梧桐は海地獄から血の池地獄に廻った。 |
昼飯後子を負うた女の案内者を雇うて先ず海地獄に上った。蘭虫という金魚の形をした池のその尾の片隅に濛々と湯烟が立って水が泡立っておる。床几を据えた休み場に、石の地蔵の立ててあるのを薫風郎は写生しておる。予はその地蔵の側に種々の型を染めた湯染の干してあるのを、句になる光景だと見ておった。 小さな山を一つ越して、柴石温泉に出て、ここの特色とも見える湯滝に打たれた。 血の池地獄にも廻って、約三里程を歩したけれどもさまでの労れも感ぜぬ。病余の痩躯も最早我輩の物になった、と人知れぬ快感を禁ずることが出来なかった。 |
大正9年(1920年)7月12日、高浜虚子は別府で地獄巡りをした。 |
血の池地獄 湯煙の消えてほのかや合歡の花 海地獄 湯煙に人現るゝ時萱草も 十二日。地獄巡り。この日鐡輪温泉富士屋泊。 |
海地獄、血の池地獄、龍巻地獄、白池地獄の4つの地獄が「別府の地獄」として国の名勝に指定されているそうだ。 |
昭和15年(1940年)3月から4月にかけて高野素十は九州旅行をした。 |
昭和27年(1952年)5月25日、水原秋桜子は海地獄を訪れた。 |
海地獄 五句 新樹下に瀾(なみ)押しめぐる海地獄 薫風やけぶりて見えぬ海地獄 煙飛び海地獄湧けり初夏暑し 海地獄百千の若葉色うしなふ 海地獄深処(ふかど)は若葉映るなし
『残鐘』 |
昭和44年(1969年)10月12日、星野立子は海地獄へ。 |
海地獄 |
蛾蜻蛉芥の如く海地獄 |