2020年大 分

羅漢寺〜各務支考〜
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中津市本耶馬渓町跡田に羅漢寺がある。

羅漢寺参道


耆闍崛山(ぎしゃくつせん)羅漢寺

 大化元年(645年)印度より渡来した法道仙人は当山の霊峰に感動し、この地に静座修禅して羅漢寺を開いたといわれています。 仙人がこの地を去る際に残した観世音像(エンブダゴン)は、この寺の霊宝として 大切に保存されています。

 暦応の頃(1338年)栄西禅師の法孫、円龕(えんがん)昭覚禅師がこの地を訪れ、耆闍崛山羅漢精舎と号しました。 これが当山、山号の由来です。その後、円龕昭覚は訪ね来た逆流建順とともに十六羅漢、五百羅漢など3700余体の石像を建造し、延文5年(1360年)に完成、一千人余りの僧侶が集まり開眼供養が行われたといわれています。

 以来、臨済宗二十六代を経て、慶長5年(1600年)長州深川大寧寺より鉄村玄ゾク(※「族」+「鳥」)禅師が入山してから曹洞宗に改まり、現住職まで二十七代となっています。

福澤諭吉 羅漢寺参詣記念之碑


諭吉は6歳ころ母親に連れられて参詣
後年耶馬溪開発に尽力する原点となる

リフトで羅漢寺駅へ。

明治32年(1899年)1月3日、夏目漱石は羅漢寺に参詣している。

   羅漢寺にて[七句]

凩や岩に取りつく羅漢路

巌窟の羅漢共こそ寒からめ

釣鐘に雲氷るべく山高し

凩の鐘楼危ふし巌の角

梯して上る大磐石の氷かな

巌頭に本堂くらき寒かな

絶壁に木枯あたるひゞきかな


明治40年(1907年)、若山牧水は羅漢寺に参詣している。

境内は撮影禁止!


明治43年(1910年)7月15日、河東碧梧桐は羅漢寺に上っている。

 羅漢寺に上り着いて、境内の岩組も、寺の眺望も存外に平凡だと思うた。山形の立石寺俗にいう山寺の山巡りは、余りに人工を加え過ぎてむしろ厭味を感ずる点のないでもないが、奇抜という点から言えば比較も出来ぬ。却って岩窟に据えてある五百羅漢の数ある土偶の中に、親を失うた七々忌日の間に詣ると、親そっくりの顔が見えるという話を面白く思うた、禹村はまだその七々忌中なので、頻りにあちらこちらと見廻っておる。七々忌中に精進もせぬ者には、眼つきだけの似た顔も見えまいと誰かいう。いずれも人間の心理作用を説明するもので、禹村のような新らしい教育をうけた者には、よし精進はしておっても親の顔は見つからぬであろう。


山門が見える。


リフトで山頂駅へ。

山頂の展望台


展望台の眺望


左手奥に英彦山が見えるようだ。

元禄11年(1698年)6月9日、各務支考は中津から日田に赴く途中で羅漢寺を訪れている。

九日

此日仲津を旅たち豊後の日田におもむくたち野といふ處を過るほど夕たちに逢ふ空やゝ晴て凉し羅漢寺の麓に駒とめて

   蝉の音をこほす梢のあらし哉

山頭によちのほりて五百尊を拜す誠に飛花の春におとろき落葉の秋をかなしめるならひ是も無風雅の佛達にはおはさゝらむ山は萬重にけはしく巖は千丈にそはたちて清淨やゝ人の膚をあらふありかたき佛塲也

   葛の葉の秋まちかほや羅漢達


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