このモニュメントは、別府観光の祖である油屋熊八翁が全国に別府温泉を宣伝した名言「山は富士 海は瀬戸内 湯は別府」を表すと共に、「旅人をねんごろにせよ」という熊八翁のお客様を心からもてなす真心を同時に表現しています。 熊八翁を偲ぶ会は、この建立によって熊八翁の唱する観光哲学を別府観光の未来へ向けたメッセージとしてここに刻むものであります。 |
主な業績 ○日本初の女性バスガイドによる地獄めぐり観光バスの運行 ○温泉マークの普及 ○大掌大会の開催(熊八翁自身が大きな手の持ち主) |
平成19年(2007年)10月、大分みらい信用金庫の「創立80周年記念事業」の一環として別府市へ寄贈されたもので、JR九州大分支社のご協力により設置されたものです。 |
揮毫 油屋正一 熊八の長男 制作 辻畑隆子 日展会員・審査員 |
・文久3年(1863年)、愛媛県宇和島の米問屋に生まれる。 小さいときから働きもので有名だった。 ・30歳のとき大阪へ出て、米の相場で成功し、巨万の富を手にする。 つけられたアダ名が“油屋将軍”。 ・34歳で相場に失敗し、全財産をなくす。 臭くて暑い船底に乗りアメリカへ。 ・3年間をかけてカナダからメキシコまでを旅し、38歳のとき帰国。 アメリカでキリスト教の洗礼を受けていた。 ・46歳のころ、別府温泉に移り住み、ホテルを経営しはじめた。それがやがて、世界のお金持ちを迎える一流ホテルに成長する。 ・アメリカで目にしたスケールの大きな観光地づくりを実践。大阪の上空から飛行機でビラをまいたり、“山は富士 海は瀬戸内 湯は別府”と書いた標柱を富士山にかつぎあげて立てたり・・。当時は誰も思いつかないような奇抜なアイディアをつぎつぎに実行した。 ・美人バスガイドが案内する観光バスを日本ではじめてつくったのもこの人である。“地獄めぐり”は爆発的人気をあつめた。 ・この人のまわりには、別府観光のためならなんでもしようというオモシロイ人たちがあつまった。みんな子どもたちが大好きで、『オトギ倶楽部』を結成し、童話や歌や演奏を聞かせた。クリスマスにはサンタクロースが水上飛行機から下りてきて、子どもたちをびっくりさせたりした。『オトギ倶楽部』で、あぶらや・くまはちは“ピカピカのおじさん”とよばれていた。 ・湯布院温泉を観光地として開発したのもこの人だった。当時描いていた観光プランは別府―湯布院―久住高原―飯田高原―阿蘇―長崎をむすんで道路をつくるという、九州全体を視野に入れたものだった。 ・昭和10年(1935年)、別府市で死去。73歳だった。くまはちが抱いた“ここを世界の観光地にしよう”という夢は、いまもこの町のあちこちに生きて息づいている。 |