2020年大 分

咸宜園跡〜廣瀬淡窓〜
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月隈公園から花月川を渡る。

豆田の街並み


人も車も多かった。

豆田御幸通りを抜けると、咸宜園(かんぎえん)跡があった。

廣瀬月花の句碑


末世と□
 何てい婦□そ
半津作久楽

(末世とは何で言ふたぞ初桜)

桜塚−初桜之句碑−(廣瀬月花の句碑)

廣瀬月花(1747−1722)廣瀬家第四世。商家・博多屋の家業を弟・三郎右衛門(号・桃秋)に譲り、堀田村に新居(秋風庵)を構え、風雅の道に入った。

この句碑は、天保3年(1832年)に廣瀬淡窓の父・桃秋によって建てられた。咸宜園絵図では豆田と隈を結ぶ街道沿いに描かれている。

国史跡 咸宜園跡 日田市淡窓2丁目

江戸時代後期には日本全国で教育熱が高まり、各地で藩校や郷校といった学校のほか、個人による私塾が多く開設された。豊後日田の儒学者・廣瀬淡窓(1782〜1856)は豆田町の豪商廣瀬家の長男として生まれたが、生来病弱のため家督を弟・久兵衛に譲り、自らは学問教授の道に進んだ。文化2年(1805年)長福寺学寮を借りて開墾、その後「成章舎」、「桂林園」を経て、文化14年(1817年)淡窓36歳のときに、自ら幼いころに養育され、俳人として著名であった伯父月化の居宅・秋風庵の隣に塾を構え、「咸宜園」と呼んだ。咸宜園の「咸宜」とは「詩経」からとった言葉で、「ことごとくよろしい」という意味である。

 入門時に身分・年齢・学歴を問わない「三奪法」、学力に基づき等級別に評価した「月旦評」、門下生に塾の運営に関わる役割を与えて社会性を身につけさせる「職任制」などの独自の教育手法が評判となり、全国から多くの門下生が集まった。現在も4,600名を超える「入門簿」が残されており、著名な人物に、大村益次郎、長三洲、上野彦馬、清浦奎吾、横田国臣らがいる。このほかに淡窓の日記などに名前が記された門下生を加えると、咸宜園で学んだ者は5,000名を超える。門下生の多くは咸宜園で学んだ後に、藩校の教授となったほか、自ら私塾を開いた。あるいは、明治学制発布後に学校の教師となり、近代教育の発展に貢献した咸宜園は淡窓没後も弟や義子、門下生に引継がれ、明治30年(1897年)に閉塾するが、江戸時代の私塾としては最大規模を有していた。

 咸宜園の建物は、門下生が増え、塾の規模が拡大するに従って増加した。発掘調査の成果や残された絵図等から、門下生の学びと生活の場や、塾主の居宅・書斎を含めた多くの建物が確認された。道を挟んで東側に講堂・東塾・秋風庵・遠思楼など、西側には考槃楼・西塾・南塾などあったが、明治以降、次第に失われていった。その後、咸宜園蔵書を保管するための書蔵庫や淡窓図書館が敷地内に建設され、現在は東側に秋風庵・遠思楼・書蔵庫(移築後修理)・井戸屋形・外便所が残り、西側に井戸が現存している。

 文政元年(1818年)11月3日、頼山陽は日田に着き、8日に咸宜園を訪ねたそうだ。

休道之詩碑


休道他郷多苦辛同袍有友自相親

柴扉暁出霜如雪君汲川流我拾薪

「休道之詩」の碑は府内城跡にもある。

休道之詩碑 (桂林荘雑詠示諸生 四首の二)

廣瀬淡窓が現在地で「咸宜園」を開く前、「桂林園」時代に詠まれた漢詩。

故郷を離れ、勉学に励む門下生たちを励ます内容となっており、淡窓の代表的な漢詩である。この詩碑は有志によって大正8年(1919年)に建立された。

休道他郷多苦辛  (い)ふことを休(や)めよ 他郷苦辛多しと

同袍有友自相親  同袍(どうほう)友有り 自づから相親しむ

柴扉暁出霜如雪  柴扉(さいひ)暁に出れば 霜 雪の如し

君汲川流我拾薪  君は川流を汲め 我は薪(たきぎ)を拾はん

咸宜園教育研究センターは休館日。

秋風庵


咸宜園を訪れる人はいなかった。

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