春日神社の神宮寺という寺が建立されたことから、「神宮寺浦」の名がついたといわれているそうだ。 |
天文十二年葡萄牙人來リ鉄砲ヲ國主大友氏ニ献ス 爾後西歐諸國ノ商船頻至互市殷盛ヲ極ム 天文二十年フランシスコ・ザビエル來ル宗麟引見其布教ヲ許ス |
宗麟大友義鎮ハ豊後国守大友家第二十一世ノ英主ニシテ遠祖能直ハ源頼朝ニ出ズ天文十九年封ヲ嗣グヤ戦国禍乱ノ世ニ処シテ四方ノ群雄ヲ循ヘ豊筑日肥伊豫ノ八州ニ百七十四城ヲ服シ鎮西ニ覇ヲ称ス時恰モ泰西文明ノ東漸ニ当リ葡萄牙西班牙ノ商舶連リニ我辺海ニ来ルモノアリ宗麟諸侯ニ率先シテ之ヲ城下神宮寺浦即チ本銅像ノ脚下春日浦ニ導キ盛ニ通商ヲ営ミソノ文化輸入ニ努ム 学校 病院 育児院ヲ始メ科学教育宗教等百般ノ文化ヲ摂取シテ暗黒乱世ノ日本ニ燦然タル西欧文明ヲ移植シ豊後ノ地ヲ以テ文化ノ中心海外貿易ノ関門タラシメタリ国崩シノ名ニ呼バルル大砲及鉄砲ハ実ニ宗麟ノ輸入ヲ以テ嚆矢トナス而モ雄図ハ之ニ止マラズ屡次待臣ヲ海外ニ派シ天正十年ニ至ッテハ鵬程萬里使ヲ遠ク羅馬ニ送リ法王グレゴリオ十三世ニ謁セシメソノ文化ヲ求ムルノ壮挙ヲ敢行セルガ是実ニ日本最初ノ遣欧使節ニシテ又日本ノ世界史上ニ登場セル濫觴タリ 天利アラズ鴻図中断シテ一空ニ帰シタリト雖遺業ハ炳トシテ青史ニ輝キ流風永ク我文化ニ貢献シ来レリ時聖代ニ会シテ人材雲ノ如クコノ地ニ起リ正ニ一世ヲ益フノ概アル又実ニ宗麟ガ遺芳ノ賚タラズンバアラス 大分新聞社長大津征夫乃チ先考淳三ノ遺志ヲ継ギ江湖有志ノ賛助ヲ得テ茲ニソノ銅像ヲ建設シ以テ遺徳ヲ顕彰スルト共ニ永ク郷党発奮ノ源泉タラシメン事ヲ期ス像ヲ刻スルモノハ県出身ノ彫塑家日名子実三頌ヲ為ルモノハ大分新聞社顧問御手洗辰雄英風ヲ欽シテ千歳ニ伝フト云爾 |
曩にこゝに建設されていた大友宗麟の像は第二次世界大戦の際金属回収の厄に遭って空しくその台座を留むる有様となっていたがその後更に中心市街と共にこの附近も戦火を蒙ったため惨胆たる廃墟となってしまった 私は終戦後初めて市長に公選されて以来この像の再建を念願したが思うに委せず荏苒今日に至ってしまったところが偶々その原型が作者日名子氏の御遺族の許に保存されている事を知り特にお願いして之を譲受け大方の御賛助を得てこの制作を県出身の彫塑家長谷秀雄氏に依嘱して茲に待望久しかった旧台座の上に昔日の英姿を再現する事が出来た次第である |