大友館は、府内と呼ばれた都市の中心に位置し、400年の歴史をもつ名門大友氏の領国支配の拠点として、14世紀後半に10代当主大友親世により整備された。以降、天正14年(1586年)島津軍の府内侵攻により廃絶するまでの約200年間、改修を重ねながら存続した。 16世紀後半になると、21代当主大友宗麟が南蛮貿易の利益を得るとともに、九州6か国の守護となるなど、大友氏は大きく発展します。天文20年(1551年)には、宣教師フランシスコ・ザビエルと宗麟がここは大友館で会見を行い、キリスト教の布教を許可しました。この歴史的な会見を契機に、宗麟はポルトガル国王へ親交を結ぶための手紙を送り、南蛮貿易が始まります。宗麟は、続く22代当主大友義統(よしむね)とともに、大友氏の最盛期をもたらし、大友館を戦国大名の居館としては屈指の規模である方2町(約200m四方)もの広大な屋敷へ拡張しました。館の南東部にあった園池は2000uを超える規模へ大改修し、政治や儀式を行う中心建物も建て替えました。大友館は、北部九州一円に覇を唱えた大大名としての威容を誇り、見る者を圧倒した、権威の象徴施設だったといえます。 |
由緒深き城趾に聳ゆる大分文化会館に郷土出身の彫塑家長谷秀雄氏の制作による大友宗麟公の像を贈り大分ライオンズクラブ結成10周年記念事業として永遠に市民の温古に供したい念願である。 宗麟公(1530〜1587)は大友家第21代本名を義鎭、極めてハイカラな武將で壮にして九州の大半を手中にしカンタン湾を開港場として諸外国と交易し鉄砲火薬を輸入して戦力を強めた一面切支丹の信者ともなり天主堂教会建立を始め我国ではじめて數々の切支丹文化を花咲かしめた戦国の英傑であった。 いま、東九州文化の中心たるべき大分文化会館に公の像を建つるも所以なくはなしと考へる次第である。 |
大分ライオンズクラブ建之 制 作 長谷秀雄 |
大友宗麟公の功績を称えるため、1969年3月9日、大分ライオンズクラブが大分市に寄贈。当時大分城址公園内にあった大分文化会館前に建立。 その後、2018年9月30日、大友氏館跡の整備、南蛮BVNGO交流館の開館に伴い移設。 |
天気が良ければ、ここからはサルがいることで有名な「高崎山」を見ることができます。 高崎山の山頂には、大友氏の山城である「高崎城」があったことがわかっており、今でも敵の侵入を防ぐためのしかけが残っています。 |
天正14年(1586年)、大友宗麟は豊臣秀吉に大坂城で謁見。 天正15年(1587年)5月23日、宗麟没。 天正16年(1588年)2月、義統は秀吉に謁見するため、上洛。秀吉から「吉」の一字を与えられて義統から吉統へ改名。 慶長10年(1605年)、吉統は死去する。 |