これまでの温泉
浅虫温泉「ホテル秋田屋」
(寛政八年正月元日)道奥のくに津刈の郡なる安袁文理のみなとべに在りて、太雪いやふる年の、寒きをいとふの心ふかくほりして、露ばかりなる夜須美をかぜに、麻蒸てふ、いで湯の舘に冬ごもりして、としはきのふとくれ、けふは、あけなば寛政八年とやいはん。 わらはべのあまた浜辺にむれて、ことしはよいとしの、といふ歌をもはらうたふ。澳の鴎、こと鳥もこゑうちあはしたり。 長閑しな外がはま風鳥すらも世を安潟とうたふ声して
『津可呂の奥』(つがろのおく) |
三時の汽車で野辺地を立つ。鶯子、泰山同行。 けふ一日ふゞかば君を止め申す 漁壮 五時この地着。 約三旬冬籠の計を立つるため、宿屋を三度変えて、室を三度改めた。 |
陸奥浅虫温泉にて 立春大吉と堂々と書して送りけり
『新傾向句集』 |
源泉名は混合湯泉(集中管理源泉第1号泉・3号・4号、浅虫36号・41号・45号泉)。 |
泉質はナトリウム・カルシウム一硫酸塩・塩化物泉(低張性弱アルカリ性高温泉)。泉温は56.5℃。pH8.21。 |
青森に就いての思ひ出は、だいたいそんなものだが、この青森市から三里ほど東の浅虫といふ海岸の温泉も、私には忘れられない土地である。やはりその「思ひ出」といふ小説の中に次のやうな一節がある。 「秋になつて、私はその都会から汽車で三十分くらゐかかつて行ける海岸の温泉地へ、弟をつれて出掛けた。そこには、私の母と病後の末の姉とが家を借りて湯治してゐたのだ。私はずつとそこへ寝泊りして、受験勉強をつづけた。私は秀才といふぬきさしならぬ名誉のために、どうしても、中学四年から高等学校へはひつて見せなければならなかつたのである。私の学校ぎらひはその頃になつて、いつそうひどかつたのであるが、何かに追はれてゐる私は、それでも一途に勉強してゐた。私はそこから汽車で学校へかよつた。日曜毎に友人たちが遊びに来るのだ。私は友人たちと必ずピクニツクにでかけた。海岸のひらたい岩の上で、肉鍋をこさへ、葡萄酒をのんだ。弟は声もよくて多くのあたらしい歌を知つてゐたから、私たちはそれらを弟に教へてもらつて、声をそろへて歌つた。遊びつかれてその岩の上で眠つて、眼がさめると潮が満ちて陸つづきだつた筈のその岩が、いつか離れ島になつてゐるので、私たちはまだ夢から醒めないでゐるやうな気がするのである。」
太宰治『津軽』 |