明治24年(1891年)8月、正岡子規は岡山後楽園を訪れている。 |
岡山後楽園 三句 鶴一つ立つたる秋の姿哉 はつきりと垣根に近し秋の山 秋さびた石なら木なら二百年
『寒山落木』(巻一) |
大正10年(1921年)3月23日、斎藤茂吉は後楽園を訪れているようである。 |
三月二十二日。琴平より高松、見物(人力車)、栗林公園、屋島。 高松午後四時發、岡山午後七時著、一泊。二十三日。第六高等 學校に山宮・志田二教授を訪ひ、醫學専門學校に荒木(蒼太郎) 教授を訪ふ。市内(人力車)、城、後樂園 この園の鶴(たづ)はしづかに遊べればかたはらに灰色の鶴の子ひとつ 時もおかずここに攻めけむ古への戰のあと波かがやきぬ 元義がきほひて歌をよみたりし岡山五番町けふよぎりたり |
大正11年(1922年)3月17日、高浜虚子は長崎に行く途中で後楽園に立ち寄った。 |
藩主の居間で、園内で最も重要な建物でしたが、戦災で焼失し、昭和35年に当時第一級の木材と技術で築庭当時の間取りに復元されました。 園内外の景勝が一望できるように作られており、歴代藩主もここから眺めました。現在もこの景観の保全につとめています。 |
能舞台の周囲の座敷は、能の見所(けんしょ)や接待の場として使われました。築庭した池田綱政は、家臣や領民にも能を見せました。 次の藩主継政の時に改築され、戦災で焼失後、その間取りが復元されました。 |
昭和11年(1936年)8月21日、高浜虚子は星野立子と岡山城を見て後楽園へ。 |
荒手茶寮にて午食。旭川舟行、岡山城を見、後楽園に至る。 城を見て後楽園に秋の水 夕凪の後楽園に今ありぬ 後楽園能楽堂 鏡板に秋の出水のあとありぬ |
烏城ともいふさふでまつ黒な中々いゝ感じのお城だつ た。たゞ城門をくゞつて這入つて下から暫らく眺める丈 にして今のつて来た船に再びのり、後楽園へゆく。旭川 といふ川は大好になつた。公園で大塚素堂さんにお目に かゝりなつかしかつた。素堂さんに紹介されて小寺魚林 荻野かほる両氏に御挨拶する。公園内で小句会。 城の下に立つ人小さき秋の風 落ちつけばすぐに睡たし縞あげ羽
「玉藻俳話」 |
巨大な花崗岩を90数個に割り、もとの形に組み上げたもので、築庭にあたり池田綱政が運ばせました。大名庭園ならではの豪快さと石の加工技術の高さがうかがえます。本園には石の割り方がわかる木型も残っています。 |
築庭当時、この辺りは山桜や楓、松で彩られた林で、建物は花葉軒と呼ばれていました。歴代藩主は、ここで茶を楽しみました。明治時代になり茂松庵と名が変わり、戦災で焼失後、園内で最初に復元されました。 |
中央に水路を通し、色彩に富んだ奇石6個を配した全国的にも珍しい建物です。藩主の庭廻りや賓客の接待などで、休憩所として使われました。戦災をまぬがれた建物の一つで、簡素なたたずまいを今に伝えています。 |
戦災をまぬがれた数少ない建物の一つで、池に架かる石橋や 対岸の小島なども、往時の姿を今に伝えています。 園内に点在する亭舎の中で、築庭を指示した藩主池田綱政がもっとも好んで利用していたといわれています。 廉池軒からの眺望は水の景色に優れています。 |
春の芽吹きと、錦織りなす秋の紅葉が美しい楓林で、古くから園内名勝の一つです。千入とは幾度も染めるという意味で、築庭当時からこの名が付いています。 |
春さむき梅の疎 |
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林をゆく鶴の高 |
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く歩みて枝をく |
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ぐらず |
アララギ派の歌人中村憲吉が昭和3年に詠んだ作品です。 |
もとは利休堂といい、幕末の岡山藩家老の下屋敷から移築された茶室で、千利休を祀っていました。 戦災で焼失し、昭和36年に再建し、岡山出身で日本に茶を伝えた栄西禅師を合祀したため茶祖堂と改めました。 |
昭和27年(1952年)5月28日、水原秋桜子は岡山後楽園を訪れている。 |
岡山後楽園 郭公や烏城にのこる角櫓
『残鐘』 |
昭和36年(1961年)5月3日、星野立子は後楽園で句会。 |
岡山下車。句会場は後楽園。見事な牡丹が雨にくずれてゆく姿が 印象に残る。この公園も先年父に連れられて来た思い出がある。藤 原大二さんが父の句日記を見せて下さる。それによると、昭和十一 年であったらしい。矢野蓬矢さんの御招きで園内の日本間で昼食し、 作り雨を降らせたりした記憶がある。 どなたかの足駄を借りて烏城の見えるところまで行って見る。旭 川の流れやこの辺のさまは多少思い出せるような気にもなるが、よ くは分らない。若葉がまことに美しい。 |
春雨やかりはく下駄のはき心地 この門をくゞりし記憶春の雨 記憶いま延養亭と春の雨 惜春や思ひ出の糸もつれ解け |