晴、菅原君夫婦朝の中より出でゝ在らず、獨昼飯を喫して後昨朝散策せしあたりを歩む、縣廳裁判所などの立てる坂道を登り行くにおのづから後樂園外の橋に出づ、道の兩側に備前燒の陶器を並べたる店舗軒を連ねたり、されど店内人なく半ば戸を閉したり、橋を渡れば公園の入口なり、別に亦一小橋あり、蓬莱橋の名を掲ぐ、郊外西大寺に到る汽車の發着所あり、 |
小とりよ 小鳥よ小鳥うらやまし うまれ故郷の恋しさに 小とりとなりて春の日を 声はりあげてうたひたや |
安政五年 旗本奥山朝征嫡男として江戸に生まる 明治七年 海軍鼓笛隊に入る 明治十年 文部省音楽取調所に就職 明治廿年 兵庫県立師範學校教師に赴任 明治廿四年生徒のために行軍歌「湊川」 (落合直文作詞)を作曲す 明治廿六年岡山県立師範學校教諭に転任 明治廿七年「勇敢なる喇叭卒」「霊鷹」「敵軍 襲来」等を作曲して名聲大いに挙がる 明治卅九年岡山市天瀬に西洋料理浩養軒を 開き世人を驚倒せしむ 昭和十八年四月九日長逝享年八十六 |
後楽園仍在 烏城不可尋願 将丹頂鶴作 対立梅林 |
後楽の園はなほあれど 烏城尋ぬ可からず 願はくは丹頂の鶴をもって 作対して梅林に立たしめん |
大正3年(1914年)、郭沫若は日本に留学、旧制第一高等学校の特設予科、旧制第六高等学校を経て九州帝国大学医学部に学んだ。 昭和30年(1955年)12月14日、40年ぶりに訪日。 昭和36年(1961年)4月、建立、詩碑建立。 昭和53年(1978年)6月12日、死去。 |