国分寺は国分尼寺とともに鎮護国家を祈るため、天平13年(741年)に聖武天皇の勅願によって建てられた官寺です。 備中国分寺の寺域は東西約160m、南北約180mで、周囲には幅1.2〜1.3mの築地土塀がめぐらされており、寺域内には南門、中門、金堂、講堂、塔などの伽藍が配置されていました。 昭和46年に岡山県教育委員会が実施した発掘調査によって、南門跡、中門跡、建物跡、築地土塀などが確認されていますが、金堂跡や講堂跡は現在も寺の境内地のうちに含まれており、その位置や規模などは明らかではありません。 備中国分寺は、中世には廃寺となり、その後江戸時代中期に至って日照山国分寺として再興されました。現存する伽藍はすべて再興後に建てられたものです。 昭和61年8月
文 部 省 岡山県教育委員会 |
この塔は、江戸時代後期の文政4年(1821年)から弘化年中まで、20数年をかけて建立されたもので、奈良時代の備中国分寺の塔とは別のところに建っています。総高約34メートルで、三層までは総欅(けやき)造りですが、四・五層は松材が主体となっています。 心柱(しんばしら)は大面取りをした松材が用いられており、床下の礎石から塔の中心を貫いて相輪(そうりん)に達しています。 初層の四面、頭貫(かしらぬき)の上には、十二支の禽獣彫刻がはめこまれており、また尾垂木(おたるき)の上には龍の彫刻なども施されています。 内陣には、仏壇を設けて、象・馬・鳥などの動物に乗った金剛界の五智如来像(大日、阿弥陀、宝生、阿シュク、不空成就各如来像)が安置されています。 |
文化2年(1805年)10月26日、大田南畝は長崎から江戸に向かう途中で備中国分寺を見ている。 |
左の田間に大きなる寺あり。これは備中の國分寺にして、太閤高松の戰の時、打死したる清水長左衛門か墓ありといへど、道より五六丁もへだゝり、日もみぢかければ見過しつ。 |