山之老 良寛 こ能古呂出雲崎耳天 このごろ出雲崎にて 堂良ち彌の者々可加多み登あ散由ふ爾佐度能志まへ遠宇ち見都留可母 たらちねのははがかたみとあさゆふに佐とのしまべをうち見つるかも 以耳之へ爾加者羅ぬ毛の波安利そ美東む閑悲爾美遊流散東能之萬難利 いにしへにかはらぬものはありそみとむかひにみゆるさとのしまなり 久斜乃以報爾安之散之能へ天おやま多能可者数能こ恵遠起可久之與志毛 くさのいほにあしさしのべておやまだのかはずのこゑをきかくしよしも
良寛
二十二日 |
あらなみをまへになじんでゐた佛 |
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おもひつめたる心の文字は空に書く |
種田山頭火は明治15年、山口県防府の素封家に生れたが家運に不幸がつづいた。大正2年、荻原井泉水に師事し卓絶の自由律俳句を作る。大正14年、44才のとき出家得度して曹洞禪侶となったが、定住と行乞遍歴の旅をくりかえし、文学と酒をこよなく愛し、孤貧の俳僧として昭和15年10月11日松山の一草庵で忽焉示寂した。それは波瀾の59年であった。 昭和11年(1936年)6月2日、曇、雨。銀汀、稲青の二君に長生橋まで送られて、さよなら、さよなら。良寛和尚の遺蹟巡り。良寛墓、良寛堂。出雲崎泊。翌日、寺泊へ、それから國上山へ。弥彦神社。
『旅日記』より |