堀部安兵衛武庸、寛文十年五月新発田藩中山家ニ生マル。母産後死去。母方ノ祖母即チ初代藩主溝口秀勝公ノ五女秋香院ニヨリ三歳迄養育サレシトイフ。安兵衛十四歳、父弥次右衛門故アツテ上知、間モナク死去ノ為親戚ニ身ヲ寄ス。十九歳、江戸ニ登リ剣客堀内源左衛門ノ門ニ入ル。コレヨリ曩、上州馬庭念流樋口道場ニ在ツテ剣ヲ学ブト伝ウ。元禄七年二月十一日、知友菅野氏ノ後見トシテ高田馬場ノ決闘ニ臨ミ村上兄弟等ヲ仆ス。縁アツテ赤穂藩堀部氏ノ女婿トナリ、浅野家ニ仕ウ。同十四年松之廊下ノ事件起リ、主家断絶ス。安兵衛武門ノ面目ヲ主ンジ復仇ノ志堅シ。同十五年十二月十四日、同志ト共ニ主讎吉良義央ヲ討ツ。同十六年二月四日、松平邸ニ於テ賜死。自若トシテ切腹ノ座ニ着ケリト。行年三十四歳。
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堀部武庸氏は少年時より逆境にあってよく文武の道に精進し士道を全うして玉砕した。剛健質実の半面やさしさを備えた人柄は郷土人資質を見るの感がある。彼の故郷への便りはいつも素朴な親愛感と思いやりの心がにじんでいた。
今や好漢去って280年、これを記念して有志相諮り銅像建設を企画、趣意を示し、各界に問うに賛意わくが如く起り、即ちこの挙に着手するを得た。御芳情を寄せられた各位に厚く感謝する次第である。茲に志を立て、青雲を望む若き安兵衛像を刻む。元禄の世の清風一味、時代を超えてなお絶えざらんことを。
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辰巳櫓

嘉永5年(1852)2月9日、吉田松陰は新発田を訪れている。
山内・米倉・五十公野(いじみの)を經て新發田に出づ。是れ溝口主膳正五萬石の都なり。市中頗る繁盛にして、毎月九の日を以て市を爲す。而して今日は會々其の日に當り民庶雜沓し、貨物粗(ほ)ぼ備はる。市廛(してん)の兩邊は皆輕卒の宅舎を並列す。生田・御輿・佐々木・島見を經て木崎に宿す。
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