2021年新 潟

光源寺〜高浜虚子三代の句碑〜
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上越市国府に光源寺という寺がある。



真宗大谷派の寺である。

 昭和21年(1946年)9月26日、高浜虚子は光源寺でホトトギス六百号記念頚城俳句会。

九月二十六日。直江津五智、和倉楼一泊。ホトトギス六百号記念
頚城俳句会。光源寺。

 野菊にも配流のあとの偲ばれて


九月二十六日   (昭和二十一年)

野菊にも配流のあとと偲ばるゝ

ホトトギス六百号を迎へたのは父の小諸住みの時であつた。終戦後間もない頃であつたのでその記念句会は概ね地方で催した。直江津、五智の光源寺でも催された。浜谷浩さんが写された、強風の砂浜に立つ父の写真が残つている。

『虚子一日一句』(星野立子編)

虚子の句碑があった。


野菊にも配流のあとと偲ばるゝ

高浜虚子先生句碑

高浜虚子先生の御句は昭和21年9月26日ホトトギス六百号記念俳句大会で当光源寺で詠まれた句です。親鸞聖人配流750年記念事業の一環として昭和31年6月28日建立されました。

 昭和37年(1962年)6月1日、星野立子は虚子の句碑を見に行った。

 バスに一同乗り込み海岸へ出る。十余年昔となった。私がはじめ
てこの海辺に立った時は秋であった。そして大風の日であった。浜
谷浩さんが、父と私とが砂浜を歩いているところを一ぱい写真に写
していられたことを想い出す。(註―玉藻昭和三十五年十月号表紙
二に掲載)汐汲の女が波打際にいたことを想い出す。みんななつか
しい春かなことになってしまった。五智の光源寺へ野菊の句碑を見
に又バスに乗る。句碑は大分馴染んでしっとりと立っていた。蜻蛉
がとび交い、田植最中の大きな田がすぐに見える。蛙がよく鳴いて
いる。少し寝不足を覚える。

夏草を刈広々とせしところ


 昭和41年(1966年)11月12日、高浜年尾は高田厚生会館で「みゆき」二十周年記念俳句大会。

   十一月二十日 「みゆき」二十周年記念俳句大会 高
   田厚生会館

初冬の櫓田みどり衰へず

粧へる山林檎園地に拓け

櫓田のかゝる勢ひも越路なる


高浜年尾・稲畑汀子の父娘句碑もあった。


櫓田の実入り吹かれてゐることも
 年尾

梅雨晴れてそこに心のある如く
 汀子

 櫓田(ひつじだ)は稲刈りのすんだあとの切り株に、また新しい茎が一面に生じた田。季節は秋。(※「櫓」は「禾」が正しい)

高浜年尾先生・稲畑汀子先生父娘句碑

高浜年尾先生の御句は昭和41年11月20日当地で詠まれた句です。

稲畑汀子先生の御句は昭和54年7月15日第2回北信越ホトトギス俳句大会で当光源寺で詠まれた句です。

平成4年12月13日五智吟社創立70周年を記念して建立されました。

本堂の屋根は修復中だった。

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