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東大寺の大伽藍は、聖武天皇の発願になる盧舎那大仏が大和国分寺の本尊として造立されたのが契機となって成立した。 大仏開眼供養会が営まれたのは天平勝宝4年(752年)。開基は良弁僧正。 東大寺では、天下太平万民豊楽が祈られるとともに、華厳教学を中心に仏教全般にわたる教理研究が行われた。 その後2度も兵火に罹ったが、創建期や鎌倉復興期の建物や仏像などの優れた文化財、修二会(お水取り)に代表される広汎な信仰活動を今に伝えている。 |
おほらかにもろてのゆびをひらかせて |
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おほきほとけはあまたらしたり |
會津八一が「東大寺にて」と題して大仏を詠んだ歌で、歌集『南京新唱』に所収されている。 「大らかに両手の指をお開きになって、大いなる仏は天空に満ち満ちていらっしゃいます」という意。 奈良の大仏即ち毘盧舎那仏は、『大方広仏華厳経』に「宇宙の中心にあって知恵と慈悲の光明をあまねく照す仏」と説かれていて、全宇宙の真実の仏とされている。 昭和25年、會津八一の古稀を祝う事業のひとつとして建立され、書は八一の自筆、彫りは喜多枡太郎による薬研彫りの手彫りである。 |
観音院の住職上司海雲は志賀直哉が奈良高畑に居住した間、志賀直哉と親交を深めている。 昭和13年(1938年)に志賀直哉が鎌倉へ移ってから、海雲は観音院を文人に開放し、多くの文人が集い「観音院サロン」と呼ばれていたそうだ。 |
觀音院に上司海雲師を訪ひて、秋ふかき奈良 のゆふべを、杯を中にしてしめやかに語る 古壺のかずかず据ゑてたのしげに海雲法師壺がたりする みほとけの次ぎには壺をよろこべるわが海雲は壷法師かも
『短歌風土記 (大和の巻一)』 |
観音院には「みほとけの次ぎには壺をよろこべるわが海雲は壷法師かも」の歌碑があるそうだが、観音院は公開していないようだ。 |