大正5年(1916年)、高浜虚子は当時国民新聞の社員として奈良ホテルに宿泊しました。駅から人力車に乗って到着した筆者は、見るもの聞くものに興味を示し、「写生文」として9回連載しています。なかでも当時はまだ珍しかった客室の様式バスやトイレと向き合った彼の表現は滑稽で、当時の日本人なら誰でも同じことを感じたであろうと微笑んでしまいます。この記事は、国立国会図書館収蔵のマイクロフィルムから複写いたしました。 |
奈良に降りてから一つの皮鞄(かばん)を股に挟んで俥に乗り、車夫に奈良ホテルに行くことを命じた。車夫は羽織袴の私の風采と、粗末に古びた舊式の皮鞄とを等分に見て、私の口から出た奈良ホテルといふ言葉を一寸不審するやうな表情を示したが、別に何とも言はず梶棒を上げて公園の中を挽いて入つた。澤山の鹿は今の時候を我物顔に公園の中を歩いてゐた。俥は師範學校の前を通り過ぎてから右に曲つて鳥居の前を過ぎ菊水樓の前をも通り越して道の兩側に池のある處へ出た。その右側の池の對岸に聳え立つてゐるのが奈良ホテルであるといふことは一見して分つた。丁度池を隔てゝ菊水樓と相對して聳え立つてゐるのであつた。私は奈良に度々來たのであつたが、此邊を見るのは始めてゞあつた。菊水樓の名は久しく聞いてゐたが、そこに泊つたことはまだ一度も無かつた。大方小刀屋とかいんばん屋とか大文字屋とか大松樓とか魚佐とかいふ古風な名前の宿に泊るのを常ととしてゐたのであつた。車夫が怪しんだ如く此服装や此皮鞄の具合では矢張其古風な宿屋に泊る方がふさはしいのであつたらうが、不圖したことから今回は奈良ホテルに泊つてみることになつたのであつた。 |
昭和4年(1929年)4月1日、高浜虚子は星野立子を連れて奈良ホテルへ。 |
夜、奈良に赴き、奈良ホテル投宿。
『年代順虚子俳句全集』(第三巻) |
奈良は随分淋しいところだと思つた。公衆電話で奈良 ホテルへ室を頼むと満員で裏通りに面した室でなければ 空いてゐないとのことであつた。人力車に揺られながら ゆく。しんとした古めかしい玄関から竜宮のやうな造り の欄や燈を見ながら二階の一室に案内される。古風でハ イカラなホテルだと思ふ。
「玉藻俳話」 |
昭和10年(1935年)4月19日、満州国皇帝愛新覚羅溥儀は奈良を訪れ、「奈良ホテル」に2泊3日の日程で滞在した。 |