大和郡山市指定文化財(建造物) |
棟門形式の小形の門で、主柱に横木をわたし、その上に桟瓦(さんがわら)を葺いた切妻屋根をのせ、右側に脇戸がつけられています。八双金物(はっそうかなもの)、乳金物(ちちかなもの)がついた内開きの板扉を鉄製の脇壺で吊り、戸締まりは木製の閂をもちいます。きわめて素朴な意匠ですが、安土桃山時代の城門の建築様式を伝えています。豊臣秀長の時代に郡山城の南御門として建築され、当時の郡山城の遺構として当市に残る唯一の建造物です。幕末に永慶寺山門として移築されたといわれています。 大和郡山市教育委員会 |
永慶寺由緒 宝永元年(1704年)、藩祖柳沢吉保公が15万石余の俸禄で、甲斐国甲府城主(現山梨県甲府市)に任ぜられる。 宝永7年(1711年)、甲斐国岩窪村躑躅ヶ崎に祖霊の冥福の供養と一族の武運長久を祈願し、菩提寺を建立する。 寺号は吉保公の戒名から龍華山永慶寺と名付け、黄檗宗第八代悦峰禅師を開山とし、寺領370石を賜る。 享保9年(1724年)、柳澤家二代吉里公時代、幕府の命により、甲府柳澤藩が大和郡山へ国替えとなり、永慶寺も柳澤家と共に現在地に移る。 この際、甲府永慶寺に在った吉保公夫妻の墓所は、乾徳山恵林寺(現山梨県塩山市内・臨済宗・妙心寺派・武田信玄公菩提寺)に改葬される。 大和郡山に移転後、永慶寺は柳澤家の信仰の場として、大和郡山での別邸的な要素も兼ねて、歴代藩主の屁護の下で明治維新を迎える。 明治維新後、一般の要望に応えて山内の梅林を開拓し、墓地として開放。 今日、柳澤家をはじめ、数多くの関係者に支えられて新しい時代へと歩んでいる。 |
明治17年(1884年)1月1日、原田八郎は静岡県長上郡原島村(現:浜松市原島町)に生まれる。 明治39年(1906年)、広島高等師範学校英語科卒。 大正3年(1914年)、郡山中学英語教師となる。 大正4年(1915年)10月9日、高浜虚子は京都三條小橋の万屋に泊まる。原田濱人は万屋を訪れた。 大正6年(1917年)10月24日、高浜虚子は九州旅行の帰途、原田八郎を訪れ永慶寺で句会を催した。 |
二十四日。郡山へ行く。雨。 秋雨や汽車奈良を過ぎて郡山 濱人居を訪ふ 客を喜びて柱に登る子秋の雨 同夜。同地「みつやま」発行所一坡庵にて句会。会者二十七人。 櫻坡子、鹿眠、哀角、青畝、稲翠、琴翠、青岳、濱人、撫子、月甫、 渓月等。 秋雨や車無ければ歩くまで |
大正13年(1924年)、濱人は「ホトトギス」同人となる。 昭和47年(1972年)8月4日、没。 |
十二月五日、大和郡山、永慶寺の句碑除幕に、尼寺を出て柳澤家 にある、伏見元子幕を引きくるゝとの事 門を出て柳の糸に触れても見 |