唐人屋敷は元禄元年(1688年)に、密貿易を取り締まるため長崎村十善寺郷のこの地に造成され、同2年(1689年)4月に完成しました。敷地は8,015坪(のちに9,373坪余に拡張)で、煉塀と矢竹来で二重に囲まれ、2階建の瓦葺き長屋が20棟あり、2,000人から3,000人の中国人を収容することができたといいます。 地主神を祀る土神堂のほか、東西の隅に天后堂が、東北の隅に観音堂が建立されています。 |
宝永2年(1705年)、蓑田卯七は唐人屋敷探り番から同組頭に昇進した。 |
大正8年(1919年)9月12日、斎藤茂吉は「四海楼」を訪れている。 |
九月十二日。独逸潜航艇を観る。縣廰小使云、「潜航艇は唐人 の靴のごとある」。夕べ新地の四海楼を訪ふ 長崎の港の岸に浮かばしめしドイツ潜航艇にわれ出入いでいりつ 四海楼に陳玉といふをとめ居りよくよく今日も見つつかへり来く |
明治32年(1899年)、籠町(旧広場町)に中国菜館兼旅館として創業。大きな横看板を揚げ、従業員300人での開業でした。初代の陳平順が考案したのが「支那饂飩」、後に「ちゃんぽん」の名に変わり、長崎の特産品として全国に知れ渡る料理となりました。歌人の斎藤茂吉をはじめ吉井勇や作家の芥川龍之介などの著名人も多く訪れました。「四海楼」は戦後、昭和26年(1951年)9月に再開し、昭和48年(1973年)11月には松が枝町に移転しました。 |
大正8年(1919年)10月、斎藤茂吉は出羽嶽を招いてチャンポンを食べた。 |
十月。東京大相撲來る。釋迦嶽九州山長興山秀の山出羽嶽等に 會ふ 巡業に來ゐる出羽嶽わが家にチャンポン食ひぬ不足もいはず |
長崎に陳玉といふむすめのゐて友と往きしもおもひでとなる |
昭和34年(1959年)3月、吉井勇は長崎を訪れた。 |
四海樓の玉姫のことを思ひ出でて戀ならなくに涙もよほす
「『形影抄』以後」 |