ここは島原藩士宮川度右衛門(たくえもん)の屋敷跡です。幕末の『島原藩士屋敷図』にも、ここが宮川邸であったことが記されています。 幕末の当主・宮川度右衛門守興(1794−1859)は、種子島流荻野派の砲術師範として、多くの弟子を育てました。 嘉永3年(1850年)12月4日、長州藩士・吉田松陰(1830−1859)が、兵学の研鑽の旅の途中にここを訪れております。 松陰は、この旅について記録した『西遊日記』の中に、 「宮川云、直發砲ニ非サレハ功ヲ成ス事ナシ。故ニ近頃葛論碩ヲ造ル。 (訳・宮川が言うには、直発砲でなければ功を成すことは無い。そのため、近ごろはカノン砲を造る。) と、この日守興から聞いた話を書き残しています。
島原商工会議所女性会 |
嘉永6年(1853年)10月26日、吉田松陰は長崎に赴く途中で再び島原に至る。 |
二十六日 曉に舟を發し、島原に至る。 |
鳥田家は藩主松平氏の草創以来の古い家柄で、藩主の転封に伴って三河国吉田、丹波国福知山と転じ、寛文9年(1669年)、ここ島原に入った。歴代地方代官・郡方物書などを勤めたが、幕末には御目見獨禮格で7石2人扶持を受け、材木奉行・宗門方加役・船津往来番などの重職についた。このあたり一帯は中・下級武士の屋敷で、一戸当たりの敷地は3畝(90坪)ずつに区切られ、家ごとに枇杷、柿、柑橘類などの果樹を植えていた。道路の中央を流れる清流は、往時の生活用水路である。 |
明治40年(1907年)8月11日、与謝野寛、北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野万里の5人は島原の市街を歩いている。 |
翌日朝飯を終へてから有馬城の故趾(あと)を観にゆく。島原の市街は存外に大きく、較(やや)都会の観を呈している。街の両側には清水が流れて川底が見え透く程澄んでゐるが、之が飲料水だと聞くと折角の快感が害(そこな)はれる。川の中、店の前、車の上、全町到る所に西瓜の多いのには驚かざるを得ぬ。 |
昭和10年(1935年)5月31日、北原白秋は武家屋敷街を見物。 |
三十一日。島原城趾、舊藩士町見物。水清く枇杷黄に實り、石塀の奥に聲高し。
『薄明消息』(南方旅行の話) |
昭和11年(1936年)7月、吉井勇は博多から長崎へ。島原、雲仙、大分、別府を経て四国路へ。 |
眉山はながくわが目に殘るらむゆふべ寂しと見たるものから 島原は石垣の町木槿まち夕日のいろもほのかなるかも 合歡の花ほのかに紅く咲き出でて雲仙みちの晝しづかなる 雲仙の蓮華躑躅の樹蔭より紅毛童子馳せ出でにけり
『天 彦』 |
昭和51年(1976年)5月24日、水原秋桜子は島原城からの武家屋敷を見ている。 |
帰途、武家屋敷町を見た。細い流れを挟んで、同じような屋敷が五、六十軒は並んでいるらしく、果ての方は細雨にけぶってよく見えない。ちょうど「走り梅雨」という時期で、水量はふえているがそれでもよく澄んでいる。どの家もここで食器などを洗うのだそうだ。二、三軒覗いてみたが、蛇や蝦蟇がいそうで、よく観察してはいられない。幸いそれは現われなかったが、頭のすぐ上の木の枝で雨蛙がしきりに鳴き立てていた。
「長崎と島原」 |
水原秋桜子は明治25年、東京都生まれ。医師で俳人。高浜虚子に師事したが、後「ホトトギス」から離れて「馬酔木」を主宰し、新興俳句運動おこら離れて「馬酔木」を主宰し、新興俳句運動おこした。異国情緒豊かな長崎を好み、長崎に関する句を数多く詠んだ。『残鐘』という句集の命名は長崎の句に由来するものである。 昭和51年の5月、「薔薇坂にきくは浦上の鐘ならずや」の句碑除幕式出席ため来崎し、そ後島らずや」の句碑除幕式出席ため来崎し、その後島原・雲仙にも訪れた。その折、印象的だった島原の家屋敷通りの中央を清水が流れる様子を詠んだのが次の句である。 |
句碑は、昭和52年12月、島原市馬酔木会、長崎馬酔木棕梠によって建立された。
長崎県立長崎図書館「長崎文学散歩」 |
明るさは島原のもの時雨るゝも
『汀子第二句集』 |