2019年長 崎

玖島城〜板敷櫓〜
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長崎空港から大村公園へ。

本丸内から見た搦手門跡


玖島城 本丸跡

 ここは大村藩二万七千石の居城である玖島城の本丸跡です。玖島城は、慶長4年(1599年)に造られた城です。その後、慶長19年(1614年)に大改修を行い、それまで北側にあった大手を南側の大手に改修し、この時、虎口(こぐち)門、台所門、搦手門の3つの入ロの形が定まったと伝えられます。

 本丸の敷地の内、西半分にあたる大村神社本殿のある一帯には大広間など侍詰所(政庁)があり、東半分の玖島稲荷神社のある一帯には藩主の居館がありました。城に天守閤はなく、平屋の御殿でした。本丸を巡る石垣の上には塀を巡らし、矢狭間、鉄砲狭間、石火矢狭間が設けられ、護摩堂や多聞櫓があったと記録されています。

 左の絵図は江戸後期の玖島城本丸を描いたもので、政庁や藩主居館の位置や間取りを見ることができます。

 玖島城は、明治4年の廃藩置県で大村県庁が置かれましたが、すぐに長崎県に合併されたことにより不要となり、建物は取り壊されました。その後、明治17年に旧藩家臣により大村家歴代を祀る大村神社が建立され、現在に至っています。

大村市教育委員会

大村神社


大村純熈公


明治36年(1903年)、創建。

昭和56年(1981年)5月、復元。

 大村家三十代純煕公は二十八代純昌公五男として天保元年11月21日大村城に生まる。台山と号す。弘化4年2月21日襲封最後の藩主たり。

 英邁の誉れ高く、夙に蘭学に心を寄せ、世界の大勢を洞察し、敢然として勤皇の旗を掲げ、戊辰戦には薩長土州と伍し東征北伐、先の雄藩に継ぐ賞典録3万石を賜ふ。

 明治3年文部令に先んじ小学校を領内に設け、奨学制度・中学創立への率先、社会事業に尽し、幾多の学者・軍人・実業家等英才輩出の基をなす。

 公は正に英君・恩人なり。明治15年1月13日薨ず。同36年万人遺徳を敬慕し銅像を創建す。然るに昭和19年大東亜戦爭に軍事徴用として撤去さる。

 尓来台座のみ晒す事久し。昨春再建の議起るや、同志忽ち相応じてここに復元を見る。幸ひなる哉。

大村純煕公銅像復元の会

虎口門跡


少年鼓手浜田勤吾


昭和61年(1985年)11月、建立。

明治維新への夜明け慶応4年戊辰の役あり。

大村藩早くより勤王に尽し薩長土州に伍して東征北伐の軍を進む。秋田救援の北伐隊325名様式装備し精強たり。二番小隊に鼓手浜田勤吾あり。紅頬15才の美少年にして常に先頭に軍鼓を打ち隊の士気を鼓舞すること勇敢なり。

9月15日刈和野に激戦し雨霰する飛弾に倒るる者多く勤吾遂に2弾を浴び「お母さん」と絶叫し戦死す。鼓音消えて秋風索漠たり。屍を角館常光院に納む。内襟に母チカ女の一首あり。

   ふた葉より手くれ水くれ待つ花は

      君かためにそ咲けよこのとき

子を思い励ます門出の歌に万人みな涙せり。星霜移りてここに118年今や銅像故山に建つ。

あゝ浜田勤吾鼓手の姿よ永久に香れかし

戊辰戦役記念碑


平成元年(1989年)11月、建立。

碑 文

明治2年6月わが大村藩「二万七千石」は戊辰戦役の勲功により薩、長、土につぎ「三万石」の賞典禄を給せられ且、優渥なる感状を賜わる。これ偏へに明治維新の大業成就のため藩主「純熈公」を中心とし藩論を一定し上下一致粉骨砕心以って勤王の誠を捧げたる所以なり。この戦役に際し大村藩は京都に到りては禁裏を守護し大津に進む、その後東海道征討軍先鋒として箱根の関を越え江戸に進撃す。江戸に於ては上野彰義隊の討伐に参加する。 慶応4年6月奥羽の賊軍追討の命下るや吾が東征軍総督土屋善右ヱ門以下118名は藩地よりの応援隊総司令大村弥門以下110名を併せ一隊を編成し薩摩、佐土原と共に進んで会津の強敵を屠り大いに戦功を立つ。又北伐軍「吾往隊」は羽州舟川港に上陸以来角館、刈和野、神宮寺等に転戦し殊勲を立つ。しかし悲しくもこの戦役に於いて少年鼓手浜田勤吾を初め戦死22名戦傷57名の犠牲者を出す。歳月は流れ明治維新の大業より120余年を経す。この秋往時を想い、ここに碑を建て勤王の志篤く名君なりし藩主「大村純熈公」の御遺徳を敬慕し併せて従軍将兵の勲功を称えんとする。

板敷櫓台


 大手入り口から海側にのびるひときわ高い石垣の中で、扇こう配の見事な曲線を描いて築かれたのがこの板敷櫓台である。この上には2層の櫓が築かれていたものと思われる。

 板敷櫓台とは、この辺りの地名を板敷と言うことからその名が付けられており、大村湾を望む展望の名所である。

 玖島城は、慶長4年(1599年)大村家第十九代大村喜前(よしあき)により築城され、慶長19年(1614年)次の純頼の時に城の大改修が行われた。その時に大手門と板敷櫓台に延びる石垣が築かれた。

 この大改修にあたっては肥後の城主で、城づくりの名人と言われる加藤清正に意見を求めたという記録も残されている。

大村市教育委員会

慶長16年(1611年)6月24日、加藤清正没。

元和2年(1616年)、大村喜前は急死、純頼が家督を継ぐ。

板敷櫓を見上げる。


板敷櫓と石垣


昭和43年(1968年)4月28日、高野素十は大村城へ。

   同二十八日 九州大会 大村城

その頃の下闇の今なけれども

大いなる夏木の幹となりし由

『芹』

大村湾


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