一茶は高山村の豪農久保田春耕を訪れ、久保田家の離れ家に136日も逗留している。その折、山田温泉に遊んだ時の句。 |
文政5年(1822年)4月の作「文政句帖」より |
一茶が50才で郷里信州に帰り |
たまたま高井野村紫(現高山村紫)の |
門人、久保田春耕を訪ねた折、山田 |
温泉に遊んだ時の晩年の句である。 |
平成2年11月建之 |
山田温泉有志一同 |
一茶記念館長 |
山田温泉大湯前に建つ。平成2年、有志によって建立。文政5年の句帳に「山田温泉にて、傷ついた親が子猿を従えて癒す物語を詠む」とある。猿湯は黒湯ともいわれ元湯付近に小屋掛けされていた。一茶はそこに湯浴びした。
高山村公民館報
高山村の松川は強酸性の水であり、温泉の源泉が松川と合流した所が現在も黒く変色している。又、明治期松川渓谷には、元湯のほか、滝ノ湯・五色ノ湯・錦ノ湯・黒湯・七九里ノ湯・御公湯と6つの温泉があったそうだ。 |
昭和11年(1936年)5月25日、山田温泉ではなく万座温泉で詠んだ句である。 |
かぎりなきみそらのはてを |
ゆくゝもの |
いかにかなしき |
こゝろなるらむ |
「山中高歌」は秋艸道人会津八一が大正10年夏山田温泉「風景館」に滞在した時の作品で、その自筆を彫刻したものだそうだ。 山田温泉は、長野県豊野駅の東四里の渓間にあり、山色清潔にして、嶺上の白雲も以って餐ふべきものをおもはしむ。かつて憂患を懐きて此処に来り遊ぶこと5、6日にして帰れり。爾来、潭声の耳にあるを覚ゆ。
秋艸道人山中高歌より、昭和庚戌7月上浣関谷小四郎建之 |
裏面には「湯本庄左衛門手題建之」、右側面には「明治27年11月」と書いてあるそうだ。 |
明治27年建立というのは、一茶の句碑としては全国で約300余基あるうちの4番目に古いもので大変貴重なものです。丸山可秋編『一茶一代全集』で「山田温泉」という前書きがつけられています。湯本庄左衛門は俳号を乳山といい、地元の俳人です。 この句碑はもともと萩久保の谷川橋から東へ10メートルの道端にあったのを昭和30年12月現在地に移したものです。 なおこの句には類句があり、西原文虎宛書簡には |
『七番日記』には |
などがあります。 |
昭和11年(1936年)5月25日、「万座峠」と題して次の句と共に詠まれたものである。 |
山路なつかしくバットもカラも |
ふきのとうも咲いてほほけて断崖 |
ごろりと岩が道のまんなかに |
こんなところに家がある子供がゐる犬がほえる(追加) |