一碧楼夫人。夫君と共に自由律俳句の確立に苦闘。 |
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一碧楼没後、俳誌(海紅)の中心者として活躍。 |
岡山県玉島町出身。自由律俳句の新運動に一声を上げ、 |
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句集6冊を発行。俳誌(海紅)の主催者。本名中塚直三。 |
明治42年(1909年)5月1日、河東碧梧桐は水月園で蕪村と子規の句碑を見ている。 |
五月一日。快晴。 今日は下諏訪社に詣でた。 白華山慈雲寺という寺は、帰化した元の僧一山の開山であるが、その境内の背ろに山つづきの高丘がある。亭を営んで水月園という。湖水を瞰下する光景はもとより、遙に富士に対する曠豁な眺望は、諏訪第一の景勝を占めておる。ここに諏訪の句として聞えておる |
富士一つ埋み残して若葉かな | 蕪村 |
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と共に、 |
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信濃路や宿かる家の蚕棚 | 子規 |
の句碑が建ててある。子規居士がこの地を過ぎたのは、「桟橋の記」を書いた、さる二十六年のことであろう、など昔のことを想いながら、寂然と遙かな湖面を瞰下ろす。 |