明治9年(1876年)、太田水穂(太田貞一)はこの地で誕生した。 旧宅は200年近い平屋建てで、100人程の歌会も行われた。(屋号・油屋) 街道を挟んで正面に旧広丘村役場、斜めに赤彦の下宿先(牛屋)があった。 明治41年上京した水穂は大正4年、短歌誌『潮音』を創刊主催し、昭和30年鎌倉にて沒。 |
たゝかひは何處にありし山川やかく静けくて雲を遊はす | 水穂 |
太平洋戦争末期、生家のこの家に疎開して敗戦を迎へ、昨日と何ら変わることなく雲を呑吐し遊ばせている山川の永遠の姿によって、敗戦の傷手をじっと自ら慰め励まそふとする歌である。 |
乗鞍の雪を染めゐし朝茜まぶしき光今も身に添う | 五郎 |
青春時代まてぼここで育った彼が、朝茜に染まる乗鞍の雪によって代表される古里に寄せる望郷の念と、その潔さを心として生き続けようとする覚悟を披瀝したものである。 |
ふもとに村家々にわらへのあることを夕日の丘に佇ちておもへり | 青丘 |
自然と人間の連帯、一日の労働をを終へての童中心の家々の団欒を、夕日の丘に佇って思いやり、この自然と人間関係の永く続くことを祈ったものである。 |
太田青丘記 |
虫まれに月も曇れるほのやみの野路をたどる吾が影もあやに |
いにしへの事を思ひつゝさび家を暗き林をかへりみるかも |
家作りものものしきを煤さびて蚕飼に暗し世の移りかも |