木曽義仲公、木曽の領主木曽家代々、木曽代官山村家の菩提所で、木曽三大寺の一つである。 当寺は、承亨6年(1434年)木曽義仲追膳供養のため、木曽家十二代信道公が荒廃していた寺を修復再建し、開山には、鎌倉建長寺開山蘭渓道隆五世の孫、圓覚太華和尚を迎えた。よって、信道公を開基、太華和尚を開山としている。 明応5年(1496年)叔雅和尚の代に木曽家十六代義元公(叔雅和尚の父)の庇護を受けて大いに発展した。これにより、義元公を中興開基、叔雅和尚を中興開山としている。 本堂をはじめ諸堂宇は、昭和2年の福島大火によって全焼し、後に復興したものである。 ・勅使門 室町時代の建築様式で、明治43年に保護建造物(重要文化財)に指定されていたが、大火によって焼失したため、昭和29年に原形通りに復元したものである。 ・観音堂 昭和30年の再建。 義仲公木像(焼失)の体内仏を安置する。推古時代の作と伝えられる金銅仏である。 ・看雲庭 枯山水の庭としてしては東洋一の広さである。禅宗庭園として昭和37年に現代作庭家の巨匠重森三玲氏によって造られた。 ・万松庭 池泉水の庭園で江戸時代中期金森宗和の作である。 ・宝物殿と庭園 平成11年、開山太華和尚六百年遠諱記念事業として造られた。 書画、什物等を展示している。 ・昇龍の庭(登竜門)親子三体の龍が昇天する姿を滝上部に、下部にはこれから龍となろうとする鯉魚石を表現している。 ・須弥山の庭(九山八海の庭)須弥山は仏教の宇宙観で、須弥山を囲む九つの山と八つの海からなり、一つの石でいくつもの山々を表現したものを九山八海石という。この庭は、九つの山を石組みで表している。 ・天正18年(1590年)豊臣秀吉が小田原の北条氏平定の頃、細川幽斎公が立ち寄ったゆかりの寺である。 元総理大臣細川護煕氏揮毫の碑がある。 ・木曽踊り発祥の地 木曽信道公が祖先義仲公供養のために始められた。甲冑に身を固めた行列が、倶利伽羅谷の戦勝にちなんでたいまつに火を灯し、鉦や太鼓を打ち鳴らして向かいの山から本寺に至り、義仲公の墓前に詣で、風流踊り(木曽踊り)を踊って霊を慰めた故事によって木曽踊りの発祥の地という。 |
木曽のナアーなかのりさん |
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木曽の御嶽ナンチャラホイ |
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夏でも寒いヨイヨイヨイ |
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袷せナアーなかのりさん |
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袷せやりたやナンチャラホイ |
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足袋そえてヨイヨイヨイ |
明治42年(1909年)5月8日、河東碧梧桐は木曽節を聞く予定で福島を訪れている。 |
五月九日。晴。 福島は岐蘇山中第一の都である。きのう妻籠から十二里の長途を強行したのは、ちょうど都合のよい馬車のあったためではなくて、他に志す所があったのである。俗に木曾節、また御嶽節、なかのりさんともいう盆踊の鄙びた歌がある。それは福島が本場であるというので、それを聞く予定であった。 |
石段正面中央の宝筐院塔。義仲は久寿元年(1154年)武蔵国(埼玉県)大蔵館で生まれた。幼名駒王丸。2歳の時、父義賢は、兄の子義平に討たれたが、斉藤実盛のはからいでこの近くの上田にあった中原兼達の屋敷にかくまわれて成育した。元服の後、宮の越(日義村)に館を建てて移った。 治承4年(1180年)、以仁王の平家追討の令旨を受け、関東、北信濃の兵を集めて北陸より京都に攻め入り平家を追討。征夷大将軍となり、朝日将軍と称せられた。 寿永3年(1184年)頼朝の軍に攻められ、近江(滋賀県)栗津原で討ち死にした。年31才。遺髪を納め、分霊はここに眠る。 |
昭和14年(1939年)5月7日、種田山頭火は興禅寺に参詣して木曽義仲の墓所を訪れている。 |
身心何となく不調、雨もふりだしたので、滞在して休養したかつたけれど、財布が合点しないので、八時をすぎてから出発する、まづ興禅寺に詣つて義仲廟を展する、それから蝙蝠傘をさしてぼつぼつ歩いた、歩いてゐるうちに、だいぶ身心も軽くなるやうである、歩くことは私には一種の服薬である。 |