恐ろしや木曽のかけ路の丸木橋 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ふみ見る度に落ちぬべきかな | (千載集) | 空人 |
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棧やいのちをからむ蔦かづら | (更科紀行) | 芭蕉 |
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かけはしや水へとどかず五月雨 | (かけはしの記) | 子規 |
数多き古歌にまた俳句に詠まれ天下の名所・史蹟として世に名高き「木曽の棧」とは、この地である。 木曽の桟とは対岸へ架した橋ではなくこの絶壁に平行して作られた桟道であった。往古は丸太の柱に板を敷いた棧道であったが、正保4年に焼失したため、尾張藩が直轄工事として木曽の山村、千村両家中に命じ、慶安元年に尾張の十兵衛により、当時の金子873両を費して石垣を完成した。 |
長さ | 56間(102メートル) |
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巾 | 2丈2尺(6.7メートル) |
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高さ | 7間(13メートル) |
左の岸壁に彫られた銘文がそれである。なおこの岸壁には往時の柱穴や工事担当者名、寛保元年の修理の銘文が刻まれていたが、上部巨岩崩落し通行安全のためコンクリート防護壁が施工され、その中に埋没された。 この地に建立されていた明治天皇駐輦碑、芭蕉句碑等は総て橋を渡った対岸の地に移された。現在も対岸から保存された慶安の石垣を見ることができる。
上松町教育委員会 上松町文化財審議委員会 |
貞享2年(1685年)、貝原益軒は木曽の棧のことを書いている。 |
是より七八町下りて木曾のかけ橋有。木曾川にかけたる橋にはあらず。山のそば道の絶えたる所にかけたる橋也。右の方は木曾川のきはなり。横二間長さ十間ある板橋也。欄干有り、兩旁は石垣をつき、むかしはあやうき所也けらし。今は尾州君より此橋を堅固にかけ給て、聊あやうき事なし。 |
元文5年(1740年)、佐久間柳居は上方から木曽路を通って江戸へ。 |
木曽 かけはしや跡にも先にも雲の峰 |
延享2年(1745年)4月6日、横井也有は尾張公のお供をして江戸から中山道を上る。13日、棧を渡る。 |
十三日 けふハ名におふかけ橋をわたる。 眠るなと馬子ハしかれど百合の花 |
宝暦6年(1756年)、鳥酔は烏明を伴い木曾路を大坂に向かったようである。 |
○木曾路 夕たちの雲にむせたる木曾路哉 ひたりは千仞の山雲を見上右は數十丈の巖に渓流を見おろす蜀の嶮岨はしらす爰に旅客の目さましく杖を立直す處なり かけはしや蠅も居直る笠の上 かけはしや其代を思ふ青あらし 陪行 烏明 |
宝暦13年(1763年)3月、蝶夢は松島遊覧の途上、木曽の棧を行く。 |
行さきは「名にしおえる棧わたるよ」と、かねて胸とゞろく。 かけ橋やうかと見られぬ山ざくら |
明和3年(1766年)、木曽福島の俳人巴笑は芭蕉の句碑を建立。 |
安永9年(1780年)3月14日、蝶夢は木曽路を経て江戸へ旅をする途中、木曽の棧を通っている。 |
なべて此木曾の道は、岨陰の人の足たつべき便なき所に、山より谷の上に木をわたし柴を敷て渡るかまへなり。「青天に上るよりもかたし」と書し蜀の棧道になぞらへて、すさまじき限りに言伝へたる中も、此あたりは棧を長く渡したる所なれば、棧とのみは此あたりをさしていふ。おのれわかき頃より旅を好みて、年ごとの春秋にはかならず旅に遊ぶに、年すでに五十にちかく、四十余年の世の中の行路難をおもひかへせば、ひとりおかしくひとり悲し。 三度まで棧こえぬ我よはひ |
享和2年(1802年)3月29日、太田南畝は木曽の棧のことを書いている。 |
まことや木曾のかけ橋の名のみことごとしういひもて伝ふるは、わづかに十間ばかりの板橋なり。川のかたに欄干あり。昔はあやうき所なりしを、尾張の君より此橋をかけ給ひ、岸のもとより石垣をつきあげて橋をかけたり。今まで過来し道のかけはしは、山のそは道に柴をよせてかけたれば、あやうき事かぎりなし。見る所の、きく所に異なる事これにてもしらる。 |
文化13年(1816年)、十返舎一九は木曽の棧にあった芭蕉の句碑のことを書いている。 |
木曾の棧道(かけはし)といふは、福嶋上松の間にして、右は高山つらなり、ひだりは巖石するどくしてそばだち、木曾川のながれさかまき、數丈の谷深く、兩岨よりかけわたす橋、むかしは藤蔦をもちひて桁とし、板をならべて往來通行したりしに、近頃は修造ありて、石を疊み橋に欄干を儲て、盲人小兒もたやすくこれをわたる。ひとへにありがたき御惠なりけらし。こゝに誹祖芭蕉翁の碑あり。かけはしや命をからむ蔦かつら、と彫つけあるを見て、 命をもからみつけたる藤かづら今はとけゆく春の雪道
『岐曾街道續続膝栗毛』(七編下巻) |
此の碑は木曽の代官山村風兆の命により美濃の友左坊が文政12年(1829年)に再建したものです。対岸の中山道端にあったのを道路改修に伴って移転しました。台は慶安の石垣石。 |
大正15年(1926年)9月22日、荻原井泉水は「木曽の棧」で芭蕉の句碑を見ている。 |
茶屋の婆さんは、誰にでもこう云って説明するのであろう。慣れた口調で弁じた。その婆さんが指さす「発句はあそこに……」というのは、「棧や」の句碑で、文政十二年秋、美濃の友左坊という人が建てた割合に新しいもので、「かけまくもあやにかしこしき我正門の祖神はせを翁……」という風な文章がその裏に書いてあった。
『随筆芭蕉』(木曾路の一日) |
地中に埋もれた古い句碑が発見されたが、旧地には友左坊の句碑があるため明治15年(1882年)に木曽町福島の津島神社の境内に建立した。 |
桟は、けわしい崖に橋をかけ、わずかに通路を開いたもので、木曽桟は歌枕にもなっていると共に、県歌「信濃の国」に歌いこまれており、寝覚の床とともに木曽路の旅情をあたためたことでその名が高い。 昔はけわしい岩の間に丸太と板を組み、藤づる等でゆわえた桟であったが、正保4年(1647年)にこれが通行人の松明で焼失した。そこで尾張藩は翌慶安元年(1648年)に長さ56間(102メートル)中央に8間(14.5メートル)の木橋をかけた石積みを完成した。このことが、今も大岩壁と石垣に銘記されている。寛保元年(1741年)の大改修と、明治13年(1880年)の改修と、2度にわたる改修で、木橋下の空間はすべて石積となり、残されていた木橋も、明治44年(1911年)には、国鉄中央線工事のため取り除かれてしまった。現在、石垣積みの部分は、国道19号線の下になているが、ほぼその全ぼうが完全な姿で残されていることが判る。 この史跡は、慶安年間に築造された石垣を根幹とし、その後いく度か改修された遺構をほぼ完全な姿で留め、往時の木曽路の桟を偲ばせる貴重なものである。
長野県教育委員会 |
かけはしやあふない処に山つゝし |
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棧や水へとゝかす五月雨 |
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むかしたれ雲のゆきゝのあとつけて |
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わたしそめけん木曽のかけはし |
更科紀行によれば、芭蕉がこの地を通り「棧やいのちをからむ蔦かづら」の句を詠んだのは貞享5年8月のことで、子規がこの地を訪れたのは明治24年6月である。そしてこの木曽路紀行は「かけはしの記」として当時の新聞に掲載された。芭蕉の訪れたことは古くから句碑があり知られているが、しかし子規がこの地を訪れたことを知る人は少ない。そこで子規が詠んだ俳句と短歌ならびに「かけはしの記」の一節を碑として建立し、訪れる人に広く伝えんとするものである。 |
「かけはしの記」の巻末に「明治24年6月記」の記載があるが、「五月雨」の句だから子規がこの地を訪れたのは5月であろう。 |
明治27年(1894年)6月、高浜虚子は木曽の棧を訪れた。 |
流水岩を洗ひ、家両三あるあたり道伴となりたる男これこそ桟よといふ。芭蕉の句石に刻まれて苔むす様に、こゝをいつはりとはおもはねど、変るは浮世の桟とは名ばかり、石垣きづきあげて命をからむ蔦の葉尋ねんもあらず。 名にし負ふ木曾の桟を来て見れば里人馬の鈴ならしつゝ行く |
明治42年(1909年)5月8日、河東碧梧桐は福島に行く途中で「桟橋の跡」という茶店に一休。 |
寿命の蕎麦を試むる暇もなく、福島に帰る馬車があったので、それに乗った。途中桟橋の跡という茶店に一休した。蔦屋泊。この日歩程九里、車程三里。
「木曽路の記」 |
大正9年(1920年)5月27日、若山牧水は木曽の棧を通りがかる。 |
桟に着いた。峡のやゝ迫つた所、一部分だけ両岸の樹木が茂り、その間、渓が深く淵をなして湛へてゐるのである。その最も狭い所に岩畳な吊橋が懸つてゐた。橋上から見ると樹木の年古く老い茂つてゐるのが先づよく、穏かな渦をなした淵の青みに遊んでゐる数多の魚の明らかに見えるのが更によかつた。昔、一人の老詩人がぼつ然として此処を通りかゝつた事を想ふのも似つかはしくなくはなかつた。私は元来名所旧蹟といふ事に一向興味を持たない方であるが、此処で彼の翁のことを想ひ出すのは割合に親しかつた。
「木曽路」 |
昭和12年(1937年)、石田波郷は木曽福島から「木曽の桟」に辿りついた。 |
正午すぎに、「木曽の桟」に辿りついた。芭蕉が「桟や命をからむ蔦かつら」と詠んだところとはいふまでもない。今の桟は明治年間の架橋である。橋下の巨大な巌盤に横つて、パンや林檎、さてはエーデルワイスと称する蜜柑の罐をひらいた。桟の裾に、桟の朝霧、木曽八景の一と書かれてあつた。川を眺めると水中に転々せる巨巌が、年月水流に浸されて真白の柔い丸味を帯びた肌を、蒼い水の上に露はしてゐた。
「木曽路」 |
昭和14年(1939年)5月7日、種田山頭火は木曽の棧で芭蕉の句碑を見ている。 |
二里ばかりで、有名な木曽の桟道がある。芭蕉の句碑二つ、明治天皇聖績(マヽ)碑(東郷大将題)。 かけはしや命をからむ蔦かつら(芭蕉翁) 傍に見すぼらしい家があつて、見すぼらしい老人が何やら拾うてゐた、これこそまことに、命をからむかけはし! |