富士見町指定名勝 |
明治12年、原之茶屋の人たちは、入会地の一部であったこの地を買い受けて小公園をつくった。ここは特に富士山と八ケ岳の眺望がすばらしく、翌年の明治天皇御巡幸の折には街道端に「芙蓉峰ヲ望ムノ勝地タリ」との建札も行われた。 明治31年、東京では正岡子規による短歌革新運動が起こり、子規没後は伊藤左千夫によって継承され、雑誌「馬酔木」「アカネ」「阿羅々木」などが次々と発刊された。同じころ、諏訪では島木赤彦を中心とする短歌活動が活発化し、同人誌「比牟呂」が刊行されていた。37年に左千夫が上諏訪布半短歌会に出席して以来、二人は志を通じ交友を重ねていた。41年、富士見油屋短歌会に左千夫ほか阿羅々木の同人たちが出席したのを契機に機運が高まり、翌年、両誌は合同して「アララギ」と改め、左千夫が主宰するごとになった。富士見は「アララギ」にとって記念すべき地となったのである。 左千夫はこの間にしばしば富士見を訪れたが、ここの自然景観をたたえ、公開の設計を推奨した。これを受けて富士見村では直ちに用地を確保し、左千夫の構想と村人の奉仕によって44年、新しい公園が完成した。爾来、今日に至っている。 左千夫の没後大正11年に、村民はその恩に酬いるため、歌碑を建立した。赤彦没後十三回忌の昭和12年には、県内外の多数の賛同者によって赤彦の歌碑が建立された。さらに、赤彦のあとアララギを主宰した斉藤茂吉の歌碑も十三回忌の昭和40年に建立された。また当町神代の出身で、アララギの選者として活躍した森山汀川の歌碑も四五年忌の平成2年に建立された。 平成10年3月
富士見町教育委員会 |
左千夫 詠 赤彦 書 |
明治37年初めて入信した左千夫は、前後9回信州を訪れているが、富士見、蓼科高原を特に愛した。 村人は、大正11年7月富士見高原を讃え広めた恩人として謝恩の意をこめて故人の歌を刻んだ。 この歌は蓼科山歌十三首の中にあり、赤彦の書も有名である。 |
赤彦 詠 茂吉 書 |
昭和12年10月、赤彦の十三回忌を期して諏訪教育会の久保田俊彦先生追悼謝恩会と富士見村が一体となり、全国の賛同者の協力を得て歌碑を建てた。 この歌は赤彦短歌の完成期を代表する傑作で大虚集に収められている。 書は茂吉の専心の書と伝えられる。 |
昭和13年(1938年)5月15日、水原秋桜子は富士見高原に赴き、島木赤彦の歌碑を見ている。 |
富士見公園に島木赤彦氏の歌碑 あり。斎藤茂吉氏の書なり。 人遠し夏草にのこす碑を見れば 松の花かゞよふに耐へ碑を詠みぬ 夏山に雲湧き日照雨(そばえ)碑を濡らす 夏の百舌鳥日照雨に鳴きて声稚(わか)し
『蘆刈』 |
桑原兆堂は『上野白浜子句集』の中で、水原秋桜子が「そうだね、富士見高原の斎藤茂吉の歌碑はいいな」と言ったと書いている。 「斎藤茂吉の歌碑」は「赤彦詠 茂吉書」の歌碑であるようだ。 |
大正10年夏渡欧を前に、1ヶ月間富士見に静養した茂吉は、後に赤彦と共に「アララギ」の編集や発展に盡くした。 昭和40年10月、茂吉十三回忌を期して、富士見町が中心となり歌集「つゆしも」の中の富士見での作品で、自ら書き残こされた歌を刻んだ。 |
明治14年9月に鶴鳴舎中によって建てられた。 書は諏訪市中金子の岩波千尋の揮毫である。 天保の頃、独楽坊一山にはじまる鶴鳴舎は、知角、柳心、対岳等の俳人を生んだ。 この句は、元禄7年の作で「箱根の関越えて」と前書があり、元禄8年の路通著「芭蕉翁行状記」に見えている。 |