斎藤茂吉の歌碑

あかあかと一本の道通りたり

     霊剋るわが命なりけり


 明治40年(1907年)9月、帝国脳病院(青山脳病院)完成。

港区南青山に「王子グリーンヒル」がある。


 「王子グリーンヒル」は外国人向け高級マンション。帝国脳病院(青山脳病院)の跡地である。

「王子グリーンヒル」の片隅に椎の木がある。


椎の木の下に斎藤茂吉の歌碑があった。


あかあかと一本の道通りたり霊剋るわが命なりけり

『あらたま』収録の歌。

「霊剋(たまきは)る」は、「命」にかかる枕詞。

昭和52年(1977年)11月、建立。

斎藤茂吉記念館によれば、52番目の茂吉歌碑である。

 斎藤茂吉翁(1882〜1953)は、日本の近代短歌史上に偉大な足跡を残しました。

 この地「港区南青山4−17−43」は、茂吉翁が明治40年から昭和20年4月までの約40年間居住し、病院経営にあたるかたわら、童馬山房と称し短歌の創作に専念されたところです。

あかあかと一本の道通りたり

      霊剋(たまきは)るわが命なりけり

 この短歌は、大正2年茂吉翁31歳の自筆の歌で、当時の青山の景観と自身の境涯とを重ね合わせて詠んだものです。

王子製紙株式会社

 大正13年(1924年)12月29日、青山脳病院は火の不始末から全焼。

 大正15年(1926年)、松沢村松原(現世田谷区松原)に新青山脳病院開設。青山の診療所は「分院」と呼ばれた。

ひさびさの都のぼりや青山の童馬山房訪ひて語らむ

『霹 靂』

 昭和7年(1932年)11月8日、永井荷風は青山脳病院に行き齋藤博士の診察を受ける。

快晴。午前青山腦病院に徃き齋藤博士の診察を請ふ。多年の不眠症いよいよ甚しくこの夏より筆硯全く廢絶するに至りぬ。然るに大石博士の方劑も既に効なく、且又去年お歌病氣の時大石君の診斷一行當らざりが故、神代君を介して齋藤氏を訪ひしなり。


 昭和20年(1945年)4月、茂吉はふるさとの金瓶村(現在の上山市金瓶)に疎開

 昭和20年(1945年)5月25日、空襲により全焼。

如月の下浣(すえ)の童馬忌來るごとに京の寒さもうべとおもはむ

「『形影抄』以後」

「王子グリーンヒル」の南に青南小学校がある。

茂吉の子供茂太や宗吉(北杜夫)は青南小学校で学んだ。

青南小学校に中村草田男の句碑がある。


降る雪や明治は遠くなりにけり

 明治44年(1911年)、草田男は青南小学校に転校。4・5年生を青南小学校で過ごした。

 昭和6年(1931年)、草田男が20年ぶりに母校を訪れた時に詠んだ句である。『長子』に収録。

 昭和52年(1977年)2月24日、青南小創立70周年記念事業として建立。

 昭和56年(1981年)7月25日、草田男は青南小学校の句碑を見る。

 昭和58年(1983年)8月5日、草田男は82才で歿。

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