若山牧水の思い出の女性日高ひでは、細島の紀の国屋の四世日高猪兵衛の長女。 明治39年(1906年)、牧水は細島港で鈴木と邂逅、日高秀子と共に細島公園を散歩した。 |
磯の日、あゝ思ひ出おほき日ならずや、こゝろかの日を想ふごとに何處ともなくほのかに松の嵐波のひゞきの通ふを覺ゆ、あゝ思ひ出おほき日ならずや。 |
海の聲ほのかにきこゆ磯の日のありしをおもふそのこひしさに |
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物がたり磯の夏樹の花かげに涼しかりにし日をおもふかな |
7月10日、鈴木財三宛葉書 |
高鍋屋は代々、三輪家によって営まれていた旅館である。建築年代は、小屋裏に保管されていた棟札より大正10年であると考えられる。本市において唯一の木造三階建であり、他に県内でも日南市に1棟あるのみである。 |
高鍋屋の屋号が示すとおり、高鍋藩とのかかわりが深く、旧高鍋藩主秋月氏の参勤交代時の休息の座敷があったところである。この御仮屋は昭和20年頃まで存在していた。 地区割等は旧来の状態を示している。
日向市教育委員会 |
明治40年(1907年)、牧水は病気で東京を離れる日高ひでを見送る。ひでは大阪で急死。 |
君、秀さんは死んだよ、細島の秀さんはもうこの世には居なくたつたよ、 或は痛く驚くかも知れぬ、然し君、それは事實だ、爭はれぬ冷い事實である。 先日の手紙であの人の歸郷した由を報じたらう、その途中大阪でわるくなつて夢のやうに消えてしまつた、死んで仕舞つた、もうこの世には居ない、君と僕と斯うして住んで居るわれらのこの世には秀さんは生きてゐない。 |
咋日は御見送り下されありがたく存じ候あの時はろくろく御禮も申しのべず失禮致し候あの新橋の別れほど悲しかりしは今までに御ざなく神奈川までの名殘の惜しかりしこと東京にはみれんはなく候へども別れし人々に又の逢瀬を期することが出來ぬやうにのみ存ぜられ汽車のまどにうつぶして泣き申し候當地はよほど暖く候間足のいたみは少なからずよろしき様に候 |
これが彼女の絶筆である、
11月18日、鈴木財藏宛書簡 |
昭和36年(1961年)6月、建立。 |
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昭和36年(1961年)7月2日、除幕。 |
『牧水歌碑めぐり』(大悟法利雄著)によれば、全国で31番目の牧水歌碑である。 |
宮崎出発。内海(うちみ)まで馬車、行程五里。この方面にも青島、鵜戸神社等予を案内する筈になっていた名所が二三あるとのことであった。 船細島に着く。予がもし宮崎から陸行する時は、と不確定な約束をした、高鍋、美々津、富高、及びこの細島の人々は予が今この船の甲板上に話相手もなく一人ポツ然と立っておるということを知るよしはない。船長が「お寂しいでしょう」と東京パック類の雑誌を二三種貸して呉れた。 |