牧水先生は明治十八年八月二十四日、坪谷に生まれた。坪谷は耳川の支流坪谷川流域の溪谷、現在では日向市から乗合自動車で簡単に行け、その生家前には停留所まで出来ていてかなり便利になって居るが、当時はまったく近代文化から取り残された山間の僻村であった。
昭和40年9月5日発行『東郷村報』(牧水記念号) |
牧水生家は弘化2年(1845年)頃に祖父健海が建て医を開業した。健海は埼玉県所沢在の農家に生まれ、長崎で医術を学び26才のとき坪谷の友を訪ねたが、坪谷の山水の美に心うたれ、そのまま永住したのだろうといわれている。 階下の道路に面した4畳の部屋が当時の診察室で、その他の部屋は家族の居間である。 東側の板縁は牧水が生まれたところである。 2階東側の明るい部屋は牧水が学生時代のころ夏休みなどで帰省中の居室で、西側のうす暗い部屋は、明治45年7月、父病気のため帰省して約10ヶ月苦悩の日々を送った際の居室である。この苦悩の間に詠んだ歌500余首を第6歌集みなかみに収めている。 この時代をみなかみ時代と呼ぶ。 階下の西側の納戸は ・飲むなと叱り叱りながらに 母がつぐうす暗き部屋の夜の酒の色 ・納戸の隅に折から一挺の大鎌あり 汝が意志をまぐるなといふが如くに と詠んだ納戸である。
牧水顕彰会 |
開館:昭和42年11月3日(文化の日) 設計:若山旅人(牧水の長男) 建設費:11,480,000円 構造:鉄筋コンクリート2階建 牧水記念館は、昭和40年7月に「若山牧水生家保存・牧水記念館建設協賛会」を結成し、牧水の長男旅人氏に設計を依頼、全国から寄せられた寄付金などによって、生家に寄り添うように建てられた。 若山家遺族をはじめ牧水を慕う人々の協力により、掛け軸などの貴重な資料を展示、玄関には文豪川端康成の揮毫による看板(現在は若山牧水記念文学館に展示)が設置された。 牧水の妻喜志子は『牧水は永遠に生きる場所を故郷に得ました』とメッセージを寄せている。 |
以来、国民的歌人若山牧水顕彰の殿堂として親しまれ、全国から多くの牧水ファンや文学愛好者が訪れた。 平成17年3月、惜しまれながらも牧水生誕120年を記念して開館した牧水記念文学館に役目を引き継ぎ、37年余りの務めを終えた。 |
台風により山の中腹から落ちて現在の場所に座ったという大岩。牧水が触れた自然石に直接刻まれており、形状、由来とも他に類を見ない秀でた歌碑である。 牧水は、明治45年(1912年)父の病気に伴い帰郷した折、この岩にのって尾鈴山系を眺めて、来し方行く末を考えながら詠んだという。 |
代表的な歌で歌集「みなかみ」に収められている。明治45年夏、父危篤の報で帰郷するが家庭の事情で東京へ帰れなかった。苦悩の日々で、裏山にのぼり尾鈴の連峰を眺めながら心のかなしみを詠んだ歌である。 |
歌碑は、牧水没後80周年と喜志子没後40周年記念事業として「日向市東郷町若山牧水顕彰会」と「若山牧水・喜志子夫婦歌碑建設委員会」が中心となって建設した。喜志子の歌碑は宮崎県では初めて。 |
をとめ子のかなしき心持つ妻を 四人子の母とおもふかなしさ 牧水
若山牧水歌集『黒松』
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牧水は一人の女性として喜志子を愛した。もちろん妻として愛し、また子供たちの母として深く愛した。文学の道にともに生きる女性、自分のよき理解者である妻、子ども達をすこやかに育てる立派な母、喜志子はその3つのどの点においても申し分なかった。 大正12年の牧水のこの歌には、喜志子という人生のかけがえのないパートナーに対する愛情が美しい調べで歌われている。 |
うてばひびくいのちのしらべしらべあひて 世にありがたき二人なりしを 喜志子
若山喜志子歌集『筑摩野』 |
喜志子にとって牧水は自分の心をすべて分かって支えてくれる最高のパートナーだった。「うてばひびくいのちのしらべ」を共有していた、稀なる夫婦だった。「ありがたき二人」だった。それは二人が純粋で素直な魂の持ち主だったからである。 この歌は昭和3年に夫の牧水が世を去った時に、二人の夫婦の生活を振り返って歌った作である。
伊藤一彦 |
すみやかに |
過ぎゆくものを |
やよ子らよ |
汝が幼な日を |
おろそかにすな |
明治29年3月 |
坪谷尋常小学校 |
卒業 12才。 |